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安全装置~堂々巡り②~

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 と、感じるようになっていた。
 義之サイボーグは、香澄の学生時代を「下見」しているので、性格による少々の驚きは、計算されているはずだ。だが、学校を卒業してからの香澄の自分に対する考え方が、さらにパワーアップされていることに気付いていないようだ。
 学生時代と実際に社会に出て行く上での心構えの違いは、本人である香澄が一番分かっている。他の人との違いを、過剰に意識してしまっているのも、無理のないことに違いない。
 義之サイボーグにも、香澄が他の女性と違っていることは分かっていた。
 もっとも、香澄くらいの年齢の女の子の常識はインプットされていて、どこがどう違うのかという詳細までは分からなかったが、じきに頭の中で計算できると思っていた。そのためには、近づく前に少し観察しておく必要があった。香澄にもその視線が分かっていたので、義之サイボーグと最初に知り合った時も違和感を感じることはなかった。
 もし、これが他の女の子だったら、義之サイボーグに対して、訝しく思ったに違いない。
――数日前から、おかしな視線を感じるけど、この人じゃないのかしら?
 と思うからなのだが、サイボーグである義之は、そのことが悪いことだという意識がなかった。
 特に、ストーキング行為に関しては、どこまでが合法で、どこからが犯罪なのかという意識は曖昧で、しかも、それを判断するのは、行う方ではなく、された方である。そのことが分かっていないと、特に相手が女性だというデリケートさを含んだ意識に対応することができないだろう。
 義之サイボーグが開発された時代のストーキング行為は、香澄の時代のストーキング行為と処罰に関してはさほど変わらない。だが、圧倒的に違うのは、
「申告者に有利だ」
 ということだった。
 香澄の時代のストーキング行為に対しては、警察の及ぶ力はさほど強くない。軽く付き纏ったくらいでは、警察は相手を逮捕することはできない、せいぜい注意するしかないのだ。
 しかも、部署は生活安全課。
 要するに警察も何かなければ、動いてくれないということなのだ。
 時代が進んでくると、次第に犯罪が凶悪化してくる。ストーキング行為がそのまま殺人に繋がったり、精神異常者が蔓延ることになってしまったり、精神的に病んだ状態の人間が堂々と表を歩いている時代がやってきた。
 そんな時代は一時期だったのだが、それにより、法制度が社会問題となり、特に性犯罪関係は急速に法改正が行われた。
 今までは
「疑わしきは罰せず」
 だった時代から、
「疑わしくは、徹底的に調べる」
 ということになり、グレーゾーンが、急激に狭められた。怪しい人間は、片っ端から「犯罪者」としての目で捜査が行われ、警察の尋問もかなり厳しいものになった。やってもいないのに、
「私がやりました」
 と、言わされる時代がやってきて、
「警察力による、恐怖政治」
 の時代を迎えることになってきた。
 この傾向はあまりいいものではなかった。
 誰もがビクビクして暮らしている。下手な行動をすれば、警察に捕まって、厳しい取り調べが待っている。そんな状態が、十年ほどは続いただろうか。さすがに、そんなひどい時代も終焉を迎えるようになり、香澄がいた時代に戻ってきた。
「その間の中間がないんだ」
 香澄との時代の間を、義之は予備知識として勉強した、サイボーグにも、その時代の歴史を、「記憶装置」に格納することに成功した。
「思考回路が錯綜しなければいいが」
 と一抹の不安もあったが、
「記憶がないよりはマシだろう」
 と、あまり深く考えることもなく埋め込んだ。
 義之サイボーグは、香澄の性格を埋め込まれ、さらに香澄を見ているうちに、自分の記憶に格納されている、二人の時代の間の記憶が、次第にリアルに頭の中で形成されていくのを感じた。二人の間の時代に横たわる、
「悪しき暗黒の時代」を、
――香澄だったら、どのように生きていくだろうか?
 と、考えていたからだ。
「香澄は、生まれる時代が少し早かったのかも知れない」
 と、いう発想が義之の中にあり、それは、
――してはいけない発想だ――
 ということに気付かなかった。
 やはり、そこが生身の人間とは違うところ、香澄を見ていて、どこか自分の中で計算できない部分が存在していることを、ウスウスだが感じ始めていた。
 香澄はもちろんのこと、義之サイボーグも義之本人も、気付いていないことがあった。
 義之は、自分がサイボーグを送り込む時代のことはある程度調べたつもりだったが、肝心なことを忘れていた。それは、
「美的感覚の違い」
 であって、それにともなって、当然一般的に好かれる女性の好みというのも、それぞれの時代で違っている。もちろん、個人差はあって当たり前だが、一般的なところで根本的に違うのだから、個人差というのは、一般的な考えをひっくるめないと、表現できないものだ。
 それは比較対象の問題があるからで、一般的な見方に対して自分の好みが「ミーハー」だったり、「オタク」だったりする。この言葉は香澄の時代から言われ続けているもので、義之の時代でも使われている。息が長い言葉と言えるだろう。
 言葉や風俗が短い間だけで終わってしまうものを、「流行」という。
「パッと咲いて、パッと散る」
 まさしく桜の花のようではないか。
 その間に間違いなく華だった時代が存在するだけ、人によっては、「儚さ」を感じるというものだ。特に日本人は昔から、この「儚さ」には弱いところがある。香澄の時代もそうだったようだが、義之の時代には、その問題は切実になっている。
 なぜなら、義之の世代のちょうど一つ前の時代に、世の中は荒れ果てていたようだ。
「破壊と殺戮の時代」
 と言われていたようで、
「よく地球がなくならなかったものだ」
 と、人類の滅亡よりもさらに地球の滅亡の危機の方が先に語られるほど、一歩間違えれば、何もかもが消滅していたことになる。
 寸でのところで回避されたようだが、その問題も、過去の歴史を考えれば、
「何か、見えない力が働いているのではないだろうか?」
 と思えるほどだった。
 考えてみれば、義之の時代は、香澄の時代背景と似ているところが多い。未曾有の大戦争の一つ後の世代であったり、人類の危機を寸でのところ、つまりは紙一重のところで解決できたりと、まるで「神懸かり」だと言ってもいいだろう。
 そう思うと、
「歴史は繰り返す」
 という言葉も、まんざらではないように思う。
 ただ、苦言を呈すれば、
「なぜ、人類はそんな愚かな過ちを何度も繰り返すのだろう?」
 と言えなくもない。
 香澄も専攻が美術関係だとはいえ、教員になるための勉強をしながら、歴史の勉強をしている時、同じことを感じていた。それも、義之が感じたのと同じようにである……。
 実質的な過去の歴史についての勉強は、義之はしていた。風俗習慣についてもある程度研究をしていたつもりだったが、予習していなかった肝心なことというのは、「男女の好み」の問題だった。