三度目に分裂
信治が図書館の夢を見たのは、本屋で買った本を喫茶店で見たその夜のことだった。
自分は高校三年生に戻っていて、受験勉強をしていた。
その日に見た夢で感じたことは、
――夢には時系列なんて関係ない――
ということと、
――やはり、夢の中には主人公とカメラを覗いている自分の二人が存在している――
ということだった。
気が付いた時には夢から覚めていた。どんな夢だったのか、ハッキリと覚えていない。しかし、不思議に感じたことがあった。
――以前にも見たような気がする夢だったな――
そう思うと、最近特に、以前にも感じたり見たと思うことは、すぐに忘れてしまうことのように思えるのだった……。
鬱状態
大学生というのは、選択した授業によって、朝そんなに早く起きなくてもいい曜日があったりする。二時限目からの登校であれば、家を九時過ぎに出ても十分に間に合うのだった。朝の七時から九時までは通勤ラッシュ、それ以降十時くらいまでは、買い物客が多いことから、なかなかゆっくりと座って電車に乗るということも難しかった。
九時までとそれ以降では、客層も違えば、乗客の数も違うのに、九時以降でも座れない。これは鉄道会社の方で、九時くらいまでは通勤時間ということで、車両を増設して走らせているからだ。本数も格段に多く、九時以降では、車両も短く、本数も少ない。乗客がそれほどいなくても座れないのは、そういうことからだった。
しかし、七時から十時までの間で信じられないほどゆっくりと座っていける時間帯があった。偶然に発見したわけではなく、ちょうどその日、大学前の駅で先輩と待ち合わせをした時間に間に合うように乗った時間の電車が、信じられないほど人が少なかったことで分かったことだ。
その先輩というのは、高校時代に予備校で知り合った人だった。
高校ではグループに所属することもなく、友達もいなかったが、予備校では誰一人信治に話しかけてくることはなかったのに、その先輩だけが話しかけてくれた。
最初は胡散臭いという意識があったせいで、ほとんど会話もしなかったが、その人懐っこさに、何か忘れていたものを思い出させてくれるような気がした。
話をしているうちに、学年が一つ上で、来年受験だと教えてくれた。自分にはまだ一年余裕があったが、先輩を見ていると、まるで受験生には思えないところがあった。プレッシャーを感じていないわけではないのだろうが、
「俺は、人には言えないが、あることに恨みのようなものを抱いている。その思いがエネルギーになるんだ」
と言っていた。
「僕と同じですね」
そう言って、自分が孤独をエネルギーにしていることを話すと、
「似たようなものだ。お互いにエネルギーになるものがあれば、集団意識なんて糞食らえだよな」
と高笑いをしたのが印象的だった。
先輩は、予定通りに受験に合格し、笑顔で卒業していった。その先輩を見ていて、やっと自分の進路が決まった。
――俺も先輩と同じ大学にいこう――
と思ったのだ。
ちょうど成績も先輩が合格した大学にボーダーが足りていた。進路指導の先生も、
「お前なら大丈夫だ」
と太鼓判を押したほどだった。
大学に合格して、先輩に再会すると、相変わらずという雰囲気だった。友達がいるというわけでもなく、いつも一人でいたのだが、孤独を感じさせるところがなかった。
それが、信治との一番の違いだった。
信治は、自分が孤独だということを自らで醸し出していた。それに比べて、先輩は余計なオーラを発散させているわけでもないのに、存在感はあった。逆に孤独を醸し出しているせいか、存在感は薄かった。目の前にあっても存在を意識させることのないまるで路傍の石のような存在だった。
――俺が絵画でなかなか思うようにいかないのは、まわりに対して存在を意識させないからではないだろうか?
と感じていた。
絵として描くのは、目の前にあるものであって、描いている本人がどうであれ、関係がないはずだ。
だが、ここまで存在感がないと、被写体の方としても、見られているという意識があるのだとすれば、信治のような存在感のない人間の存在に対して見られているという意識はない。
――まさか、他の人と違うものが見えているのかも知れない――
それならそれでいい気がした。他の人には見えないものが見えたということで、自分が他の人と違うということの証明でもあった。
だが、自分が納得できないのはなぜだろう?
他の人に見えないものが見えているのであれば、それはいいのだが、逆に他の人に見えているものが、自分には見えていないような気がして、それが納得いかない一番の理由だった。
悩みを先輩に打ち明けると、
「そんなことは気にしなくていいんじゃないか? 芸術家の中には、目の前にあるものを忠実に描くことをせずに、いろいろ想像で付け加えたり、中には、不要だと思ったものは、大胆に削ってしまう人もいるというぞ。一つのことにこだわろうとするから、自分で納得がいかないだけなんじゃないか?」
「そうですね。僕はプロになろうなどということを考えているわけではないので、自分の納得がいく作品を数多く作れればいいと思っているんですよ」
というと、
「だったら、なおさら描いている途中で、いい悪いを考えずに、思った通りに描き上げてみればいい。君だって自分なりに完成できるようになるまでには、かなり時間が掛かったんだろう?」
「ええ、本を買ってきて読んだりしました。最初は図書館とか行ってみたんですが、どうにも図書館は苦手で」
「なるほど、君だったらそうだろうね。自分に正直なところがあるから、そう思うんじゃないかな?」
「正直なんでしょうか?」
「そう思うよ。そして、どうして図書館が苦手なのか自分でも分かっているんだろう?」
「分かっているんですかね?」
「分かっているんだよ。自分にはできないことをしている連中を見ながら、それでも、自分と照らし合わせようとしているように僕には見えるんだけど」
言われてみればそんな気がした。
第一、自分に照らし合わせてみなければ、自分にできるかできないかを考えることもできない。自分の中で照らし合わせてみることを嫌っていると思っていたので、納得がいかなかったのだ。
そこまで思うと、見えてくるものもあった。
高校時代に、このことに気づいていれば、図書館に近づくことはなかったことだろう。無駄な時間だったとは思いたくないが、図書館という場所が自分にとって一種の鬼門になってしまったことを知ったのだ。
その日、先輩と待ち合わせをした喫茶店は、レンガ造りが印象的な店で、早朝七時から営業していた。
早い時間は、サラリーマンが多かったが、八時を過ぎると、大学生も徐々に増えてくる。マスターと、アルバイトの女の子二人との三人で朝をまわしていた。
大学入学した頃は、一時限目に授業がある日は、いつもこの店に入り、モーニングを食べていた。
カリカリのベーコンに、半熟に近い目玉焼き、シーザードレッシングのかかった野菜サラダが一枚の大きな皿に乗っている。