三度目に分裂
トーストは別の皿に乗っていて、信治はいつもいちごジャムを塗って食べていた。
この店では、トーストに塗るものは、自分で選べる。コーヒーがおかわり自由でジャムやバターも、セルフサービスになっているところが嬉しかった。
しかも、コーヒー豆にはこだわりがあるようで、絶えずコーヒーの香ばしい香りが店内に充満していた。
信治は、コーヒーの香りに混ざって目玉焼きが焼ける匂いが好きだった。
最近は、少しご無沙汰していたが、先輩から誘われて嫌と言わない理由の一つがこの店を指定したことだったことは否定できない。
約束は九時だった。
家を八時十五分に出れば余裕だった。
駅まで歩いて十分。電車に乗って二十分。ホームでの電車の待ち合わせを考えても十分な時間だった。
部屋を出てから駅までの道は、さすがに人が多かった。サラリーマンというよりも小学生や中学生の通学の風景だった。小学生は皆団体で歩いていたが、それは仕方のないことで、制服に身を包んだ中高生は、さすがに一人の通学もいた。
一人で歩いている人の後姿は、背筋が曲がっているのが似合っている。背筋を伸ばして歩いている姿は想像できなかった。
――俺もあんな感じだったのかな?
想像すると、何とも言えない気持ちになったが、孤独というよりも哀愁という言葉がよく似合う。
信治は、哀愁という言葉の方が、孤独という言葉よりも恰好がいいとは思ったが、やはり自分は哀愁ではなく孤独だった。哀愁には孤独のような重みを感じないからだ。
――哀愁というのは、まわりに情けを感じさせるもので、自分が愛する孤独とはまったく違っているものだ――
と感じていた。
孤独というものは、自分を納得させるものであって、哀愁のように、まわりに情けを感じさせるものをどうやって納得させればいいというのか、まったく比較対象になるものではなかった。
駅まで来ると、サラリーマンはほとんど姿がなく、見かけるのは学生だけだった。
中高生もほとんど姿を見ることはなく、自分と同じ大学生がばかりに見えた。自分が乗る路線には、比較的学校が多かった。高校も多いが、大学も結構あった。
電車に乗って約二十分というと、ちょうどいい距離である。少し遠いと思っている人もいるかも知れないが、遠くもなく近くもなく、電車に乗るのが嫌いではない信治にとってはちょうどよかった。
駅から大学までは歩いて十分、まさに大学のために作られた駅のようだが、実際には近くにある神社のために作られた駅で、大学が後からできたらしい。神社はちょうど駅の裏にあり、あまり大きくはないが、歴史的には有名な神社らしく、一応、門前町も広がっていて、この駅の乗降客は、学生がほとんどと、神社参拝の人が少し。大学がなければ、寂しい駅だったに違いない。
乗客が少なかったおかげで、好きなところに座れた。その日は、海側の席に座り、ぼんやりと表を見ながら、電車の揺れに身を任せていた。
電車の揺れに身を任せ、、のんびりと乗るには、二十分というのは短すぎる。しかしその日は時間が経つのが長く感じられ、表の景色を堪能しながら、二十分を過ごすことができた。駅に到着し、自動改札を抜けると、目の前に赤レンガの建物が見えている。普段は見えていても、あまり気にしたことはなかった。赤レンガを見た時、
――これから人と会うんだ――
普段から人に会う約束などしたことのない信治は、気心の知れた先輩だと分かっていながら、赤レンガを見ると、急に緊張してきた。
呼び出しをかけたのは先輩だった。普段鳴ることのない携帯のメール着信音が鳴った。最初は、
――どうせ、迷惑メールか何かかも?
と思った。
迷惑メールが来ないようにはしていたが、ひと月に何通か、かいくぐったように飛んでくることがある。きっとそうに違いないと思った。
そのせいで、一時間ほど、メールの確認が遅れた。
「あれ、先輩からじゃないか」
と思うと、ビックリした。
先輩にはアドレスは教えていたが、メールが来たのはアドレスを教えてから一か月後のことだった。
前に会った時にアドレス交換したので、最後に会ったのひと月前ということになる。信治が入学してきて、まだ間もない頃に一度と、それから少ししてが二度目だった。
その時初めて入ったのが、この赤レンガの喫茶店だった。大学の近くにある喫茶店には何度か入ったことはあったが、この店には入ることはなかった。
――入ってみたい――
と思ったことはあったが、何となく敷居が高い気がしたのだ。
表から見ると、サラリーマンが多く、どうにも場違いな気がしたからっだ。
しかし、先輩に連れてきてもらってからというもの、定期的に顔を出すようになっていた。この店は駅前にある店のわりには、常連さんが多いという。場違いに感じられたのは、駅前にあるため、大衆的な店に思えたからだということに、その時初めて気が付いたのだ。
お店の名前は喫茶「ユーカリ」。考えてみれば、この時間に来るのも珍しいし、人と待ち合わせをすることも普段からない信治は、待ち合わせの店が馴染みの店だということで余計に緊張した。しかも、最初に教えてくれたのは、待ち合わせの相手である先輩だ。そう思うと、どこか不思議な気がした。
一番最初に待ち合わせた時のことである。
「やあ、今日は呼び出して済まないね」
喫茶店の扉を開くと、すぐに先輩の声が聞こえてきた。
先輩とここで待ち合わせをするのは三回目だが、三回とも先輩の方が先に来ていて、いつも同じ入り口に近い窓際の席だった。信治が一人で来る時はいつもカウンターなので、テーブル席は久しぶりだった。
「先輩もお元気そうで」
「いやいや、おかげさまで」
社交辞令的な挨拶を済ませると、二人は笑顔になった。
普段なら、こんな社交辞令のような挨拶は嫌いなのだが、先輩が相手だと嫌な気はしない。たぶん、先輩も同じ気持ちなのではないだろうか。お互いに嫌いな社交辞令な挨拶なので、半分は洒落の気分であった。
大学に入ってからの先輩は、予備校時代とは違い、友達をたくさん作ったようだ。だが、それも一年生の時の最初だけだったという。そのことを先輩が教えてくれたのは、最初に待ち合わせた時のことだった。
「俺は大学に入って、なるべくたくさんの人に声を掛けて、友達を作ろうと思ったんだ。もちろん、集団意識とは別の意味でな」
「はい」
「だから、なるべく違うクラスの連中や、違う学部の連中に声を掛けてみたんだよ。それもあまり友達がいないような雰囲気のやつにね。最初は戸惑いを見せながらも、皆仲良くなると、心を割って話をしてくれた。ほとんど皆、自分から話しかけることができずに、話しかけられるのを待っていたって言っていたんだ。だから、俺はこの連中を束ねることができるって思ったんだよ」
「そうでしょうね」
先輩の話は分かる気がした。だが、話の筋が分かるだけで、言いたいことを理解できるわけではなかった。
――これって、しょせんは集団意識だよな。先輩は大学に入って変わってしまったんだろうか?
と感じた。
その思いを察したのか、先輩は語り始めた。