三度目に分裂
その時のドヤ顔は、忘れてしまいたいのに、なかなか忘れることができない。しかし、信治が忘れられないのは、そのドヤ顔ではなく、ドヤ顔の横で黙って連れ添っている女性だった。
彼女の方が年上だということが分かると、クラスメイトのドヤ顔が、いかにも子供っぽく感じられた。彼女の方が大人で、黙ってその様子を見ている。そんな子供っぽい相手に嫉妬しなければいけない自分が情けなくなり、早くドヤ顔を忘れたかった。
どうして、その顔が忘れられないのか、最初は分からなかった。しかし、考えているうちに忘れないのは、彼女の顔であり。忘れたくなかった。彼女の顔を忘れないようにするにはドヤ顔を頭から消さないようにしなければいけない。そのことに気づくと、忘れたいと思っているよりも、忘れたくないと思っていることの方が明らかに強いのを感じると、忘れられないドヤ顔にも、
――仕方のないことだ――
と考えるようになったのだ。
目を瞑ると、彼女の顔が浮かんでくる。
――こんなことをしてはいけない――
罪悪感を感じながらもしてしまう自慰行為で想像するのは、彼女だった。
果ててしまうと、襲ってくる罪悪感に輪をかけるかのように浮かんでくるのは、隣にいたクラスメイトのドヤ顔だった。
「何だよ、一体」
それでも、欲求不満には勝てなくて、繰り返してしまう自慰行為を、何度か繰り返すうちに、次第にドヤ顔が出てこなくなった。
その頃になると、罪悪感も薄れていき、自慰行為を正当化する自分の気持ちに整理がついてきている気がしていた。
その頃から、頭の中を彼女が支配するようになってきた。
クラスメイトと彼女がどうなったのか知らなかったが、孤独を愛する自分の中で、間違いなく想像上の彼女は自分だけのものだった。
――これが孤独の醍醐味なんだ――
誰かと関わってしまうと、想像上の人物を自分だけのものにするという意識が薄れてしまう。一人でもまわりに誰かがいると、その人から受ける影響は、まるで太陽と地球の関係のようで、相手の影響で自分が存在できているとまで考えてしまうようになるようで、それが怖かったのだ。
中学時代までの自分がそうだった。
孤独を好きになるまでは、自分がまわりから助けられて生きているとしか考えていなかった。どうしてそんなことを思っていたのか考えてみると、考えられることは、
――教育の影響――
だったに違いない。
小学生の頃の先生の言葉で、
「先生が子供の頃に見たテレビドラマで、『人という字は、人と人が寄り添うようにできている』っていうセリフがあったんだけど、人は一人では生きていけないって言われたんですよ。だから、親やお友達は大切にしなければいけない」
と聞かされたことが頭にあったからだ。
だから、
――俺は、皆に助けられているんだ――
と思うようになり、その恩恵は目に見えるものだと信じていた。
しかし、なかなか目に見えて助けられているという印象はない。それでも先生の言葉は忘れられず、
――大人になれば、見えてくるようになるはずだ――
と思うようになった。
その後、ふと感じたのは、
――大人になればって、大人っていうのは、いつからなんだろう?
漠然とそう思うようになった。
小学六年生の頃だったか、先生に聞いてみたことがあった。
「大人になるって、いつからが大人なんですか?」
と聞くと、先生は困ったような表情になり、
「個人差があるから何とも言えないな。自分が大人になったと思う瞬間があれば、その前後に大人になったと言えるんじゃないかな?」
そう言って、先生はホッとした表情になった。一番無難な答えだったからであろう。
「先生は、いつだったんですか?」
「大人というのも、段階があると思うんだ。思春期であったり、社会人になる時だったり、それぞれの節目で、大人を感じることがあると思うんだ」
「思春期というと、青春時代のようなものですか?」
「そうだね。小学生でもテレビドラマとかを見たりすると、思春期や青春時代について、他人事ではあるかも知れないけど、感じるものがあるのかも知れないね」
と、先生は言っていたが、その通りだと思った。
その時の先生の話は半分頭の中に残っていた。だから、中学三年生の時に感じた自分の思春期、そこが一つの節目としての「大人」だと思うようになった。
だが、その時に、
――俺は人から助けられているという感情がどうしても湧いてこない――
と感じた。
まだ大人になり切れていないという思いと、青春時代とはかけ離れた高校時代を思うと、憂いしか浮かんで来なかった。
そこで考えるようになったのが開き直りだった。
――別に大人になんかならなくてもいいんだ――
まわりに助けられているという思いを払拭し、孤独を愛するようになると、急に気が楽になった。
――自分は、他の連中とは違う――
という思いを抱きながら、次に考えるのは、
――どこが違うというのか――
そこを見つけることだと思った。
自慰行為を繰り返しながら想像した女性の恥じらう姿。ドヤ顔をしていたクラスメイトを黙って見ていた彼女が、この自分に対して許しを請うような表情をするのだ。
そこで感じた芸術への思い、それが自分の目指すものだと思うと、これが他の連中との違いだと感じた。その時に、自分が他の人の助けを受けているわけではなく、まわりに対しての優位性であることに気が付いた。
それが勉強への活力になり、孤独を愛する意義になっていった。
大学に入ってからできた友達と話をした時、
「他人への優位性というのは、大なり小なり誰もが持っているものさ」
と言った。
その言葉が信治の頭を強烈に殴った気がした。それまでの自分の考えを打ち消すかのようなその言葉は、ある意味「後退への宣告」のように思えたのだが、すぐに我に返った。
――それでも、自分は自分なんだ――
と感じたからで、
「でも、優位性をまわりから感じないんだけど」
というと、
「それは、他の人は皆その優位性を悪いことだって思っているからなんじゃないかな? 人と関わって生きている以上、まわりへの優位性は失礼に当たると思ったり、自分がそう思うことで、相手もそう思ってしまえば、せっかくの良好な関係が崩れてしまう。それを恐れてのことじゃないんだろうか」
「なるほど」
彼の話にはいちいち説得力があった。
「君は、いつも孤独を感じているようだけど、それは悪いことではない。まわりとは違うという意識が表に出ることも僕は悪いことではないと思っている。だから、僕は君のことが気になったし、友達になってみたいと思ったんだ」
「じゃあ、君も孤独を愛していたのかい?」
「そうだね、孤独は嫌いではないけど、孤独ばかりではなかった。人と関わることを拒否することはなかったし、来るものは拒まずという思いがあったのも事実だね」
「友達は多かったんですか?」
「多いわけではないよ。同士と言えるような考えが近い連中ばかりがまわりにいたので、誰とでも付き合うということはしなかったね」
彼の話しに納得していたが、
「待てよ。そうなると、偏ったグループができてしまうのではないのかな?」
というと、