三度目に分裂
中学を卒業した頃から、急に彼女がほしいと思うようになったのだが、その思いは、きっと他の人が最初に感じた思いとは違っていることだろう。
中学時代までは、孤独を欲していたわけではない。友達とつるんでいるのはあまり感心しなかったが、人といると煩わしいとまでは思わなかった。実際に時々話をする友達もいたのだが、その友達とは中学三年生になる頃には、ほとんど話をしなくなっていた。それも、信治から離れていったわけではなく、友達の方から離れて行った。
――向こうが話をしたくないと思っているのに、俺の方からわざわざ話に行くのは嫌だな――
と思うようになり、結局疎遠になっていった。
ちょうどその頃、遅咲きの思春期を迎えていた信治だったが、その友達がどうして疎遠になったのか、ある日偶然見かけた光景が、すべてを物語っていた。
――あんな楽しそうなやつの表情、初めてみた――
その隣には、一人の女の子がいた。
笑顔の可愛い女の子を見下ろしながら、表情は完全にデレデレしていて、悔しいがお似合いのカップルだった。
それを見た時、信治は自分の中で何かが崩れていくのを感じたが、その時は、不思議と悔しくはなかった。
羨ましいという思いがそのまま嫉妬に繋がり、
――女の子と一緒にいると、あんなに楽しい顔になれるんだ――
と思うと、友達や集団の中にいる煩わしさとは別の感情が浮かんでくるのではないかと思うようになった。
身体も子供から大人に変わってくる。
自分から寄って行かなくても、学校ではグループに入っている連中が、誰に聞かれてもかまわないと言わんばかりに、大声で話をしている。明らかにまわりに聞かせたいのだ。その話は、卑猥で淫靡な話だった。それまでの信治だったら、恥ずかしくて退室していたことだろう。
しかし、聞こえてくる話に対して、耳は勝手に反応していた。
――淫靡な話をもっと聞いてみたい――
それは、自分が思春期を迎えた証拠であり、身体が反応してしまい、本来なら頭が身体に命令を下すもののはずなのに、身体の方から、頭を制して、行動を促しているかのようだった。
――動きたくない――
そう思うのも、身体が頭を制しているからなのだろう。
――淫靡な話と、友達の楽しそうな表情を重ねて考えてはいけない――
そう思えば思うほど、身体が反応してしまう。
淫靡な話を聞きたいのは、友達の楽しそうな表情を見たからだと自分に言い聞かせることで、そのまま言い訳に使ってしまう自分が情けなく思う。
だが、女の子と付き合ってみたいという思いは、それ以上大きくなることもなければ、しぼんでいくものでもないように思えた。そう考えると、将来彼女ができても、結婚しても、この思いは変わらない気がした。
――このままいけば、俺は浮気性になってしまうかも知れないな――
そんなことを思うと、逆に誰か一人の人とお付き合いをしてみたくなった。その時に、自分の本性が分かると思ったからだ。
その感情が、
――自分は他の人とは違うんだ――
という思いを増幅させたともいえる。
高校に入学してから、受験のためにまわりとつるむことを億劫に考えるようになったのも、この時に感じた、他人との違いが一番大きかったのだ。受験のためというのは、あくまでも、他人との違いを形にする上での過程と言えるだろう。
信治は、自分が他人と違うという感覚は、自由を欲しているからだと思っている。人が一人では生きていけないという言葉がその人の自由を奪い、必ず誰かを頼ったり当てにしていなければいけないという考えは、逆に言えば、人から頼られることもあるということだ。
頼られてもびくともしないような精神力の人間であればいいが、下手に助言して、相手の立場をさらに悪くしてしまえば、相手からは恨まれ、自己嫌悪にも陥ってしまう。そんな運命は辿りたくないだろう。
人の意見に左右されて、間違った道を選んだ人に対して、まわりは、
「最後に決めるのは自分なんだからね」
と勝手なことをいう。
こちらが苦しんでいると、
「一人で苦しまないで、まわりの意見を聴くのも一つの手だ」
というアドバイスをしてくれるが、間違った選択をすると、最後に決めるのは自分だと言われる。
確かに冷静に考えるとそうなのだろうが、冷静に考えられないから、苦しんでいたんだ。それを簡単にまわりが助言などするものだから、ついつい頼ってしまう。信治はそれを億劫だと感じ、人との関わりを自ら遮断した。孤独とは、自分の中で自由に生きることであり、いかに自分らしさを出せるかということに尽きるだろう。信治がそう思うことにした。
高校に入学した頃から、女性を見る目が変わってきた。目の前にいる女性を裸にしてみたり、勝手に妄想を繰り返していた。最初はそれを想像だと思っていたが、妄想だと気付いた時には、妄想している自分に興奮する自分がいるのも感じた。
裸にしてみるのは、自分よりも年上の女性ばかりだ。それまで年上の女性は遠い存在だと思っていたのに、裸にしてしまうと、どんな表情をするのかというのを想像すると、彼女と、それほど距離を感じなかった。恥ずかしそうに訴えるような目は、自分に許しを請う眼をしているのか、それとも何かを欲しがっているようにすら思えた。裸に剥かれた女性がどこを隠しているのかを想像すると、以前図書館で見た、名前は忘れたが、海外の有名画家の絵を思い出した。
――やはり、エロスって芸術なんだ――
と思うと、裸を想像する自分を正当化できた。
高校時代はさすがに受験勉強のためになかなかできなかったが、大学に入ると、芸術に勤しみたいと思うようになった。その思いが大学に入学する意義であると思うと、余計にまわりを見ていて、集団意識だけで受験勉強している連中との違いを自分に感じ、余計に孤独を楽しみたくなっていった。
ただ、欲求に耐えられるだけの精神状態でなかったのは事実で、高校時代に自慰行為に勤しんだのは否定できない。最初は果てた後に、罪悪感に陥ってしまっていたが、途中からは罪悪感に陥ることはなくなった。スッキリすることで、勉強の前に絵画の本を見ることで、
「よし、頑張って勉強するぞ」
という気分にさせてくれた。
もし、芸術に造詣の深さを感じなければ、ただ自慰行為を繰り返すだけで、勉強をしても身になったかどうか分からない。孤独に対しての正当性も感じなかったかも知れないし、芸術という概念が、信治の中で、精神的な「潤滑油」となり、いい方にすべてが向いていたのかも知れない。
一番よかったのは、受験勉強が苦痛に感じられなかったことだ。きっと、自慰行為に罪悪感を感じなくなったことがきっかけではなかったかと思う。逆に自慰行為に対して汚らわしさしか感じていなければ、潤滑油もなかった。必要悪という言葉があるが、罪悪感もある意味、一つの必要悪だったのかも知れない。
信治が自慰行為のために想像した女の子はいつも決まっていた。
――あれって初恋だったんだろうか?
と最初に思ったが、すぐに打ち消した。
その人は、中学三年生の頃、クラスメイトが連れていた女性だった。
こちらが聞いてもいないのに、
「彼女は高校二年生なんだ」
と、自慢タラタラだった。