三度目に分裂
だが、実際にはその時に鉄の味を感じたわけではなく、後になって、鉄分を舐めることがあり、その時に感じた鉄分の味が子供の頃の記憶を思い起こさせた。その時、子供の頃の記憶があまりにも曖昧だったため、鉄分の味を最初から感じたのだという風に錯覚してしまったに違いない。
電流を感じて鉄分の味を感じたのは最初だけだった。痺れのようなものは感じるが、味を感じなくなったということは、すぐに味がなくなってしまったのか、感じてはいるが、味に慣れてしまったのかのどちらかである。もし後者だとすれば、味を感じるということは、次第に感覚が膨れ上がってこなければ、どんどん感じなくなるということになる。これこそ無限のものであるはずもなく、どこかに限界がある。そういう意味で、胃袋の限界こそが、味を感じる感覚の限界ではないかとも感じられた。
人間にはいろいろな欲がある。
支配欲、独占欲、征服欲、物欲、性欲、食欲とそれぞれだが、前者の三つはない人がいたとしても、後ろの三つに関しては持っていない人はいないだろう。
しかし、その中で本当に限界のないものはないと思う。一気に燃え上がって、ピークにくれば、果てることで我に返る性欲など、必ず限界に至るまでに何かの兆候があるというものだ。
性欲などは、果ててしまうと、我に返って罪悪感に苛まれる人もいるだろう。しかし、本当のクライマックスは果てる瞬間に訪れる。だからこそ、人は果ててしまった後の憔悴感を味わい、罪悪感を少しでも和らげようとするものなのかも知れない。
思春期以降の人間で、この性欲のない人はいないだろう。少なくとも若くして命を閉じた人間でもない限り、一度も果てずに人生を終わることはありえないはずだからだ。
「種の保存」
という意味でも大切であるが、人間が生きている証として性欲を感じないということは「罪」なのではないかと言えるだろう。
しかし、そんな理屈を考えてしまうということは、風俗というものを他人には認められても、自分には認められないと思っているからであろう。
「自分に辛く、他人に甘い」
と言えば聞こえはいいが、要は自分が他人とは違うということを自分に認めさせたいからだ。
もっとも、自分に辛く、他人に甘いなどという言葉は、自分が他人とは違うと思っている時点で、自分には関係のないものだったはずだ。それを隠れ蓑にしてしまおうというのは、少々虫が良すぎると言えないだろうか。
そんな考えが頭をよぎっていたが、気が付くと、先輩の足は風俗街に、向いていた。今までにテレビなどで見たことはあったが、実際に訪れるのは初めてだ。実際に来てみると、いかがわしいというよりも、艶やかさが男の部分をそそり立たせる。結果としては一緒だが、言葉にしようと思えばいくらでも出てきそうだ。
風俗にもいろいろ種類があるのは知っていた。先輩が連れてきてくれたのは、その中でも高級さが漂う場所だった。
「この辺りはソープ街なんだ。あまり経験のない人は、一人で歩き回らない方がいいぞ」
と教えてくれた。
「はい」
先輩の足は、スピードが緩むことはない。どうやらお目当ての店は決まっているようだった。
「俺も最初に来た時は、先輩に連れてこられたんだ。今と同じように、一人では来るなって言われたっけ」
そう言いながら、歩を進めている先輩の横にピタリとくっついて歩いていた。
歩行者は確かにほとんどいなかった。客引きの人が近寄ってくるが、先輩が手で合図をすると、彼らは大人しく引き下がっている。
「ほら、この店だ」
そう言って先輩は一軒のソープに入った。
信治も遅れまじと中に入ったが、
「いらっしゃいませ。お客様はいつものみゆきさんですね?」
と言って、スタッフの男性が笑顔で先輩に声を掛けていた。
「ああ、大丈夫かな?」
「ええ、大丈夫ですよ」
こういうところのスタッフというのは笑顔は見せないものだと勝手に思い込んでいたが、さすが客に対して笑顔がないサービス業のお店というのはないものだ。そう思うと、スタッフの笑顔に普通に接している先輩を見ると、
――必要以上に緊張することなんかないんだ――
と感じた。
「今日は、後輩を連れてきたんだけどね」
スタッフは信治を見ると、
「これはこれは、先輩からのご紹介ですね。ご来店ありがとうございます」
と、丁寧に頭を下げてくれる。
「あ、いえ、こちらこそ、よろしくお願いします」
と、同じように頭を下げる。
こういう他愛もない会話でも、普段話すことのない相手と会話をしていると思うと緊張する。
「それでは待合室にご案内しますので、そこで女の子をお選びいただきます」
と言って、二人を待合室に案内したスタッフは、手に女の子の写真を持っていて、テーブルに並べて見せてくれた。カードのようになった写真を、トランプのように、一枚一枚並べてくれる。目の前に置かれたのは四枚だった。
「現在ご案内できる女の子です」
カードには年齢や源氏名、スリーサイズと言った選択のための簡単なプロフィールが載っていた。
「お勧めは?」
と聞いてみると、
「この子はテクニック、この子は会話が楽しい。この子は癒し系ですね」
と、三人を指さしたが、信治が気になったのは、その三人以外のもう一人の女の子、あどけなさが残るというか、他の三人が妖艶な笑みを浮かべているにも関わらず、その子だけが、笑顔の中に、ぎこちなさを感じさせた。
「じゃあ、僕はこの子で」
と言って、気になった女の子を指さすと、スタッフは一瞬驚いた表情になったが、すぐに、
「友香さんでございますね」
「はい。お願いします」
友香と呼ばれた女の子をチョイスした信治は、選んだ瞬間、他の女の子の写真の笑顔が急にわざとらしく感じられた。
――やっぱり友香さんを選んでよかった――
とホッとしたが、まだ対面もしていないことを思い出し、すぐに我に返った。
風俗で出てきた写真と、実際に出てきた女の子がまったく違って見えたという話はよく聞く。信治も写真で想像しているような女の子が目の前に現れるなどとは思っていなかった。
しかし、四人の写真を見た中で、友香だけがその思いを最小限にとどめてくれるであろうと確信した。やはり、いきなりショックを受けるのは、誰だって嫌だろう。
まず、先輩が先に呼ばれた。
「じゃあ、お先に、お前はお前で楽しむんだぞ」
と、先輩はそう言って、カーテンの奥に消えて行った。
待合室には自分一人が残された。先輩と二人で来たはずなのに、待合室で一人になった瞬間から、自分一人で店に来たような思いを抱くに至った。
――思い切って、一人で来てみたんだ――
という発想から、ここまでのシチュエーションを勝手に想像してみた。すると、最初からドキドキしていた気持ちが、まったく変わることなく今まで持続していて、しかも、その思いが最後に累積していたことに気づくと、緊張感が最高潮であることが分かってきた。
待合室での時間は、一人取り残された気分になってしまうと、緊張とプレッシャーが襲ってくるような気がしたが、その二つを揉み消すことができるほどの期待が、信治の中にあった。