三度目に分裂
「そうなんだ。見た目や第一印象は悪くないので、皆が勘違いすることがあるようで、女性と付き合ったとしても、すぐに、『あなたとは世界が違う』って言われて別れが訪れるんだ。それでも最初は、告白されて付き合うことがあったんだけど、何度か同じことを重ねていくうちに、女性からも告白してこなくなった。元々が孤独を好きだから、それほど大きなショックではないが、何度も同じパターンを繰り返したり、それ以降、女性から何も言われなくなると、さすがに考えてしまうよな」
と、普段の先輩からは想像もできないような愚痴だった。
「先輩がそんなことを考えていたなんて」
相手が先輩でなければ、ここまでは意外にも思わなかっただろう。
「人は見かけによらないというけど、その通りかも知れないな。俺も知り合いの人で、頼りにしていた先輩がいたんだけど、急に連絡が取れなくなり、消息がつかめたかと思うと、山に一人で登って、事故で死んだという話を聞かされた」
「ショックだったでしょう?」
「ああ、ショックだったというよりも、震えが止まらなかった。その話を聞いた瞬間、まるでそれが自分のことを言われているような錯覚に陥ったんだ。実に不思議な感覚で、その瞬間、先輩の話がまるで他人事のように思えたくらいなんだぜ」
すぐに相手の気持ちになって考えるのが、無意識のようになっている信治には、その気持ちはよく分かった。
先輩は続けた。
「人の気持ちなんて、その人それぞれで、しかも、その状況によって、さまざまじゃないか。つまりは、可能性というのは無限にあると言ってもいい。だから可能性というのだろうが、その可能性は長く生きたから、どんどん増えるわけでも、波乱万丈の人生だから、誰よりも可能性があったとは言えないと思うんだ。いくら無限に広がっていると言っても、どこかに限界というものはあり、何かがあってショックを受けるのは、その時が自分の限界だと勘違いしてしまうからなんだろうね。逆に言えば、限界だと思っていることが限界ではないので、人は立ち直れるのさ。『生きていれば、そのうちにきっといいことがある』という慰めの言葉をよく落ち込んでいる人に掛けるけど、わざとらしくも感じるのは、ただその言葉に重みというものがないからさ」
「確かにそうですよね。同じような苦しみを味わっている人に言われるなら説得力もあるけど、自分の言葉に酔っているような輩に、そんなこと言われる筋合いなどないと思いますよね」
「まったくその通りだ」
「僕もこの間失恋したんだけど、最初は全部自分が悪いと思い込もうとしていると、相手に白い目で見られたような気がしたんです」
「それはきっと、お前が自分が悪者になることで、自分を納得させようと思ったように見えたんじゃないか? 悲劇のヒーローを演じたいという気持ちも分からなくもないが、その感情は、当事者の相手に、一番露骨に見えるものらしい。そして、そんな思いを今後もしたくないから、女性は相手の男性から去っていくんだよ」
「そうなんですね」
「おいおい、他人事のように言っているけど、お前にも言えることなんだぞ。自然消滅のようになっている人もいるけど、見た目一番静かに見えるが、実際には、ドロドロした気持ちの応酬でしかないんだ。どっちも一歩も譲らない気持ちが、お互いに騒ぎ立てようとしない。まわりに知られて、余計な憶測を呼びたくないという思いからなんだろうな」
「そういえば、彼女の嫌なところも見えたような気がしたんですが、なぜか今思い出そうとすると、思い出せないんですよ」
「それを思い出す時が来るとすれば、もう一度同じような過ちを犯した時じゃないかな?」
「ということは、思い出さない方がいいということですか?」
「そんなわけではない。思い出すことで、うまくいけば、最高のカップル誕生となるかも知れない。しかし、正直にいうと、その可能性は低く、もしカップルとなっても、リスクが高いかも知れない」
「どうしてそんなことが言い切れるんですか?」
「言い切ったわけではない。ただ、自分が似たような思いをしたことがあったからだね」
「でも、先輩は今、いつも同じ失敗を繰り返していて、それ以降女性から声を掛けられないと言ったじゃないですか」
「僕の話はそれ以前のことだよ。唯一女性と付き合った経験というべきだね」
「先輩がモテないと思っているのは、その時のリスクが影響しているのかも知れないということなんですか?」
「そう取ってもらってもいいと思う。ただ、その時の思いは、自分の中では遠い昔の出来事のように思えるんだ」
「それは僕には理解しにくいことですね」
「まあ、いい。俺は孤独が好きだという思いに変わりはないんだけど。女性がそばにいてくれないと、正直寂しさを感じる。相手の言葉がいくらお世辞であっても、それでもいいと思えるような相手がいれば、余計なことを考えずに済むだろう?」
「そんな風に思えるような相手がいるんですか?」
「ああ、いるのさ。だけど、人によっては虚しく感じるんだろうと思う。身体だけの関係と言ってもいい。だから、これから行こうとしているところは、強制はしない。だが、お前なら最後に虚しくなるということはないと思うんだ。お前には俺と同じ雰囲気を感じるからな」
「風俗……ですか?」
「ああ、そうだ。お前は行ったことあるか?」
「いいえ、ありません」
「そうか。実は俺も先輩に連れて行かれたんだけど、あの時もこんな感じで、最初にいろいろ話をして、途中で向かっているところが風俗だと気付かされた。一瞬騙されたと思ったが、ついていくのをやめる気にはならなかった。ついて行くしかないと思ったからだが、もちろん興味もあった。その時、先輩からも散々、嫌なら帰っていいって言われたよ。そう言われると、なかなか帰れるものではない。スケベ心も手伝ってか、次第に楽しみになってきたさ。『お金を払って女性を買う』という行為だとしか思っていなかった俺だったけど、そこだけは入るまでには感覚が変わった。もう一度言う。強制はしないので、嫌だったら帰っていいからな」
先輩にそう言われると、ついていくしかなかった。
確かに先輩の言う通り、
「お金を払って、女性を買う」
という感覚が薄れていくのを感じていた。それは、身体に低電圧の電流が流れているような感覚だった。
身体に電流を感じると、口の中が鉄分を帯びているように感じることがあった。子供の頃、電池の極を舐めてみて、
――鉄の味だ――
と感じたのを思い出した。
また、同じように鉄分の味を感じたこともあった。
何度か感じたことだったが、一番最初に、そして一番イメージを強く持っているのは、小学生の頃にあった出来事だった。
学校の授業で鉄棒があり、千部の指が順手になっていたことで、身体を支えられずに、顎から落ちたことがあった。
その時に唇の中を噛み切ってしまったようで、口の中に血が溢れてくるのを感じた。
吐き出しても血が溢れてくる。
その時に感じたのが、鉄分の味だった。
小学生の低学年だったので、鉄の味がどんなものか知らなかったはずなのに、どうしてその時に鉄の味だと思ったのか、後になって考えてしまった。