三度目に分裂
彼女と一緒にいたのは、三か月程度のものだっただろうか。その間は長いと思っていた三か月だったが、終わってみれば、あっという間だった。それだけその間に進展がなかったことを意味していて、そう思いたくはないが、無駄な時期だったと思わざるおえなくなっていたのだ。
先輩と話をしていて、そんな時期を思い出していた。今思い出すと、さらに短かったように思える三か月、もうこれ以上思い出すと、今度は記憶から消えてしまいそうなほど、あっという間の出来事になってしまっていた。
それから、半年ほど経ったが、恋愛はおろか、女性への興味もなくなっていた。
――やっぱり、僕は一人が似合っているんだ――
と感じたからで、一人でいることの何が自分にとって大切なことなのか、気が付けば考えるようになっていた。
その答えは分かるはずもなかった。分かってしまうと、孤独を愛することができなくなるような気がしたからだ。そう思うと、
――分かりたくない――
と思いながら、考えているという、またしてもおかしな矛盾を抱えているように思えていた。
――何かを考えるということは、矛盾と向き合っているようだな――
という変な理屈に辿り着く。
そもそも矛盾に何かを感じるということは、無意識のうちに今までに何度もあったことだと思っている。
――何かを考えるということ自体が、矛盾を晴らそうとする感情の表れではないか?
そう思うのは、飛躍しすぎであろうか。
矛盾という言葉は意識してしまうと、悪いことのように思えて、堂々巡りを繰り返す。無意識の方が、いつの間にか解決できていることのように思うと、普段からいつも何かを考えている自分の頭の中は正常に働いているのだと安心できるのだ。
先輩の背中を見ながら歩いていると、いろいろな考えが浮かんでくるのだが、すべてを吸収してくれそうなほど、大きな背中に見えてきたのは、ただの気のせいだろうか。
アルコールの酔いもかなり影響しているだろう。いつもなら気持ち悪いだけの酔いなのに、その日は、一度表に出てくると、スッキリしていて、今なら何でもできてしまいそうなほどの錯覚に陥っていた。ただ、何でもできたとしても、それが自分の中に満足を抱かせられるかどうかは、別の話ではあった。
「先輩、どこに行くんですか?」
先輩は、振り返ろうとはせず、声だけが聞こえた。
「黙ってついてくれば分かるよ。実は俺、今日はムラムラした気持ちになっていたんだ。もし、途中で嫌になったのなら、帰ってもいいぞ」
走って行って、前から先輩の顔を拝んでみたい衝動に駆られたが、その顔を見るのはやめた。怖いからというよりも、先輩に今の自分の顔を見られるのが嫌だったからだ。お互いに相手の顔を見るのを憚っているようで、その気持ちが、二人の間に異様な空気をもたらした。そのせいもあってか、妖艶なイメージを頭がよぎり、敢えて先輩の顔を見ることをしたくない自分を感じていた。
その時、先日まで付き合っていた香穂のことを思い出した。酔っぱらった自分とどのようにホテルに入ったのかというのを想像していた。意識もなく、彼女の話ではかなりハイテンションだったとはいえ、ずっとハイテンションだったわけでもないと思う。もし、信治がずっとハイテンションだったら、香穂は一緒にホテルに行ってもいいとは思わなかっただろう。
――きっと、どこかで女心をホッとさせるようなものを、僕が見せたのかも知れないな――
と感じた。
その時の自分が意識がなかったため、想像できるとすれば、香穂の立場や目線からだった。
香穂は、大人っぽいところがあるわりに、母性本能に溢れているような気がした。目の前で困っている人がいると、黙って見てはいられないタイプの女性なのだが、もし、相手に裏切られると、一気に落ち込んでしまい、下手をすると報復に転じてしまうことがありそうなほど、気の強いところもあった。
うまくいかなかった信治に対して報復はなかったが、それは、お互いに最初からうまくいかないものを行かせようとした結果であり、双方に責任があると分かったからだ。
信治にも自分が悪いという自覚があり、反省しているところもあったので、それを分かった香穂が、信治に報復する理由はなかった。もし、相手がすべての責任を香穂に押し付けようとするならば、報復に至るのは必至だったはずだ。
香穂は自分の気持ちもさることながら、理屈に合わないことは決して許さないタイプだった。
彼女の報復は、相手に理不尽さが見えたり、理不尽さをわざと最初から隠して付き合おうとする人間が嫌いだった。お互いに立場もあれば、考え方もある。それだけに守らなければいけないルールは間違いなく存在する。それは相手によって違うものであり、すべてを十羽一絡げのように扱ってしまう人には、浅はかさが許せなかった。
――そんな人に、女性と付き合う資格はない――
と思っていた。
――彼女の気持ちが手に取るように分かるようだ――
その時の香穂は、信治に引っ張られながら、実は身を任されていた。重みも十分に感じていた分、信治の心臓の鼓動や、身体の熱さを身に染みて分かっていた。
――ここまで熱くなった身体、初めてだわ――
と感じたかも知れない。
信治が童貞であるということに気が付いたのは、この時だったのかも知れない。
信治と二人で歩いていて、ホテル街に近づいているのを分かっていた。だが、ホテルのネオンが目の前に見えた時、信治は反射的に、足をホテルの方向から背けた。
実はこの時の記憶だけは、信治にも残っていた。
――どうして背けたりしたんだろう?
と思ったが、それは一瞬のことで、すぐに覚えていないゾーンに入ってからは、足がホテルに吸い寄せられるように入っていったのだ。
香穂が信治を童貞だと思ったとすれば、この時ではないかと信治は思っていたが、実際にはその前から香穂には分かっていた。そのことは、今日、香穂の立場に立って想像をめぐらしている中でも、思いつくものではなかった。
このような微妙なところで、しかも具体的なところで感覚的に違っているところが、数多くあったのだろう。少しくらいは気づいても、具体的にはまったく分からなかった。男女の関係の難しさはこういうところにあるのではないだろうか。
香穂のことを思い出しながら歩いていると、先輩の背中が大きく見えた。あの時の自分が香穂の前に立っていれば。ここまで大きく見えることはないだろう。
ただ、大きくは見えたが、背筋は前かがみに曲がっていた。疲れからなのか、それとも悩みを抱えての心労なのか、すぐには分からなかった。
「なあ、俺はこれでも女性にあまりモテなくてな」
「えっ」
いきなりの告白にビックリした。見た目ガッチリしたタイプで頼りがいもありそうで、第一印象で、悪く思われることはまずないだろうと思える先輩の口から出てくる言葉とは思えなかった。
「どうしてですか? 先輩、しっかりしているし、見た目もそんなに悪くないですよ」
と答えた。
あまり褒めちぎっても白々しいだけであり、正直に見た目を言うのが、一番間違いがないと思った。