三度目に分裂
十時くらいまでは、お酒を出してもらっても、ほとんど口にすることもなく、かといって、彼女と会話があるわけではなかった。会話をしようと思っても、ちょこまかと動くので、なかなか会話にならない。客が埋まってくるまでに用意しないといけないことを、一つずつ思い出しているようだった。
「このお店、どれくらいなんだい?」
「ここ三か月くらいかしら? まだまだよく分かっていないので、実際にお客さんが入ってきても、まだまだ用意できていないものがあったりして、バタバタなのよ。でも、お客さんが入ってくると、そこから世界が急に変わったように見えるから不思議なものよ。結構それが楽しくて、今は続けていられるのかな?」
と言って笑っていた。
実際に、十時前くらいからちょくちょくお客さんが入ってきた。
サラリーマンの団体が来ることが多いのかと思っていたが、客のほとんどは一人で来る人で、スーツを着ているわけではない。普通のタフな服装で、カウンターの上に両肘をついておしぼりを受け取っている姿を見ていると、完全に常連さんだということは見て取れた。
「私は、近くの商店街でブティックを経営しているんだけどね」
と、言っていたが、どうやら、お店を閉めてから、夕飯を家で食べてから、落ち着いてきているようだ。風呂にも入ってサッパリしているのかも知れない。どこかスッキリした様子に見えた。
その後は数人の客が三十分以内にやってきていた。どうやら、皆馴染みのようだった。
その中には女の子が一人いた。その女の子は馴染みというところまで来ているわけではなかったが、OLをしているということだった。高校を卒業してすぐということだったので、年齢的には同じだったが、こういうお店で見るからなのか、それとも、相手が社会人だと思うからなのか、かなりお姉さんに感じられた。
まわりの人も気を遣ってくれて、二人を隣同士の席にしてくれて、会話を促しているようだった。信治は普段から孤独を愛する人間なので、女の子はおろか、人と話すこと自体苦手だった。相手の女の子も、あまり会話が得意ではないように見えたので、ここは男として何とか会話を繋ごうと思い、何とか会話をしているようだった。
というのも、すでに結構アルコールが入っていてアルコールの力で会話をしていたというのもその一つだった。次第に意識がなくなっていき、気持ち悪くなったこともあって、お金を払って表に出た。彼女が介抱してくれて、近くの公園のベンチに座ったところまでは覚えている。
「星が綺麗だね」
と言って、星を見上げた時、風を感じたのも覚えている。しかし、記憶はそこまでだった。
気が付けば、大きなベッドの上に服を着たまま寝かされていた。その横に、さっきの彼女が座っている。
「大丈夫? 悪いと思ったんだけど、あまりにもきつそうだったので、私の方から連れ込んじゃった」
と言って笑っていた。
「あ、ごめん。ありがとう」
というと、彼女は笑いながら、
「どっちなのよ」
というと、信治は照れ臭そうに、
「どっちも……かな?」
「ふふふ、でも、あなたも相当酔っていたようだけど、思ったよりも足元はしっかりしていたのよ。私が支えることもなく、ここまでこれたんだからね」
「そうだったんだ」
「もう、大丈夫? ジャワ―浴びてくればいいのに。私は先に浴びちゃったわよ」
そう言って彼女を見ると、彼女は部屋に備え付けのガウンを着ていた。そう、ここは、今までに入ったことのなかったラブホテルだったのだ。窓のところを見ると、ガラスではなく、雨戸のようなものに、内装と色を合わせた形になっているのが印象的だ。部屋は思ったより小綺麗で、もっと狭いものかと思っていたが、そうでもない。淫靡な雰囲気を残しながら、爽やかさを感じられるその部屋を、信治は見渡していた。
「こういうところに来るのは初めて?」
「ええ、あなたは?」
「私は初めてではないけど、そんなにしょっちゅう来るようなことはないわ」
淫靡な雰囲気を醸し出している彼女だったが、相手かまわず、利用しているようには見えなかった。贔屓目に見ているからだろうか。
「じゃあ、シャワー浴びさせてもらいます」
恥ずかしさと、どうしていいのかを一人で考えようという思いがあることから、彼女に勧められる通り、シャワーを浴びることにした。
それにしても、初めて会った相手と、ラブホテルに一緒にいるこのシチュエーションは、夢ではないだろうかとしか思えない。ずっと孤独を愛してきたはずの信治だった。もし孤独を打ち破る何かがあるとすれば、
――肌のぬくもりを感じた時だ――
と思っていた。
それはもちろん、相手は女性である。思春期の時、想像が妄想に変わり、自らを慰めていた自分を思い出すと、情けないという思いと、孤独の象徴が女性のぬくもりを知らないことのように思っていた。
これまでに好きになった女性がいなかったわけではないが、好きになった女性に限って、彼氏がいたりするものだ。比較的早めに彼氏がいることを知ると、
――深く好きにならなくてよかった――
と思う。
もちろん、女性に好かれたこともない。それも、思春期に自慰行為に耽っていたつけが回ってきたからではないかと思うようになっていた。
普段から、あまりシャワーを使うことのない信治だったが、とりあえず気が付く身体の隅々まで綺麗にしなければいけないという思いの下、時間を掛けたつもりだったが、思ったよりも、時間が経つのが早いのか、あっという間のシャワータイムだった。
髪を乾かして部屋に戻ると、かすかな明かりだけで、薄暗さの中で、最初は目を馴らすのに時間が掛かった。ベッドの上の掛布団が揺れているように見えたので、中で彼女が待っていてくれているようだ。
信治がシャワーから出てきたのが分かったのか、彼女は掛布団から半分身体を起こし、ニコニコ笑いながら、こちらを見ているようだ。暗さの中で、よくそこまで分かったものだと思うほど、目が慣れてきていたのだ。
「さあ、いらっしゃい」
と、彼女が手招きをする。
目は彼女を捉えて離さない。静寂の中で、キーンという耳鳴りと、自分の心臓の鼓動が聞こえてくるのが分かる。心臓の鼓動がいつになく早くなっていて、高鳴りというのはこういうことなのかと思うほど、激しい音に感じられた。
掛布団を掴んで、彼女の横に潜り込むと、ガサガサという掛布団のこすれる音と、ミシミシというベッドの軋む音が聞こえてきた。その音がどちらも淫靡に感じられ、すでにプレイは始まっていることを感じさせられた。
ベッドに入ると、目の前に彼女の顔があった。
――こんなに薄暗いのに、目だけが光っているように見える――
最初に感じたのが、その不思議な感覚だった。
目の輝きが、彼女の好奇の目であるということを信じて疑わなかったが、どうしてそう思ったのかというと、次の瞬間、彼女の顔が妖しく歪んで、真っ白い歯が目に飛び込んできたからだ。
その笑顔を見ると、金縛りに遭ったような気がした。
――久しぶりに感じる感覚だ――
最近は、金縛りに遭うこともなかった。