三度目に分裂
「今もそうなのかい?」
「今は少し違ってきています。時々、デジャブに対して自分独自の考えが頭をよぎったちょうどその時、『前にも同じようなものを見た記憶があるような』と感じるんです。デジャブを思い浮かべたことでそうなので、本当は意識していないつもりで意識しているのかも知れないです」
「それはまるで、『夢を見ている夢』を見ているような感覚なんじゃないかな?」
「そう、その感覚です。どう言葉にすればいいのかって思っていたんですが、今の言葉、そのままいただきますっていう感覚ですね」
先輩との話には、必ず一回は、目からうろこが落ちたような時があった。今日は今の話がその時なのかも知れない。
そして、目からうろこが落ちると、今度はその話をそれ以上続けても、進展はないような気がして、どちらからともなく、話を変えるような素振りが見られる。
この日は、その思いに先に立ったのは信治の方で、
「そろそろ行きますか?」
と席を立った。
先輩も話をしているうちにコーヒーも飲んでしまって、どこか手持無沙汰に見えたからだ。
「そうだな」
と言って立ち上がった先輩の後をついて歩いたが、その日は、終始先輩の後ろをついて歩くことになると、その時感じたのだった。
風俗の友香
時間的には午後七時を過ぎた頃だった。先輩の行きつけだという焼き鳥屋に連れて行ってもらった。あまり飲み事は多くない信治にとって、焼き鳥屋の雰囲気は新鮮だった。
ただ、少しするとすぐに疲れを感じた。
飲んだ量は生ビールを中ジョッキ―にいっぱいほどだったのだが、寄ってくると、呼吸困難に陥るようで、息切れを感じるようになった。
しかも、焼き鳥屋というと、大衆酒場の代表のようなところなので、まわりのことを考えずに騒いでいる連中がいくつかあった。ただでさえ孤独が好きな信治は、次第に雰囲気に呑まれていく自分を感じていた。
――なんで僕が、あんな連中のために、こんな気分にならなければいけないんだ――
と恨みの矛先は騒いでいる輩たちに向けられた。
人数で来ている人でも、なるべく静かに飲んでいる人もいるのに、騒いでいる連中を見ていると、苛立ち以外には感じられない。それだけに酔いの周りが早く、次第に空間が狭くなってきているように思えてならなかった。照明に照らされた白い煙を見ていると、それほど気になっていなかったタバコの煙までもが、その場の空気を苦痛以外の何物でもなくしてしまっていた。
トイレも近いようで、最初は我慢していたが、そのうちに我慢できなくなり、頻繁にトイレに入るようになると、さすがに先輩も分かってくれた。
「おい、大丈夫か?」
三回目のトイレを出た時、表で先輩が心配そうにこちらを見ていた。気になったので、見に来てくれたようだ。
「ありがとうございます。大丈夫です」
と言いながら、結構顔色が悪かったのだろう。先輩は席をそのままにして、表にある公園に連れ出してくれた。
「結構、アルコール弱かったんだな」
「そうですね。それに空気がどうにも耐えられなくても、こうやって外の空気を吸っていると、すぐに楽になりますよ」
と、言って、ベンチに腰掛けた。
空を見ると、星が綺麗だった。
最近星など見ていないことに気が付いたが、もう一つ気が付いたのは、空を見上げていると、普段よりも風を余計に感じるということだった。
――気持ちいいな――
お腹も適度に満たされていて、今から店に戻って酒を呑む気にもなれなかった。
時計を見ると、そろそろ九時くらいになっていた。このまま帰ってもいいくらいの時間だったが、先輩は一体どう思っているのだろう?
「君は、風俗に行ったことがあるかい?」
「えっ?」
いきなりの先輩の話にビックリした。
先輩のように豪快に見える人は、風俗に通っていても、それは拍が付くという意味で、別に不思議はない気がしたが、今までの自分を考えると、風俗は考えられなかった。
実は信治は童貞ではない。彼女がいたというわけではないし、風俗経験があったわけでもないのに、童貞ではなかった。信治は一度一人で呑み屋に出掛けた時があったのだが、その時は、無性に一人でいるのが嫌だった時である。かといって、一緒にいてくれる人もいないだろうし、それならまったく知らない人のいるところに行こうと思ったのだ。
その店は、スナックで、店に入った時は一人だけだった。他に客もおらず、人がいるところに行くつもりだったはずなのに、誰もいなかったことにホッとしている自分もいたりした。
ママさんは出かけていて、女の子が一人、留守番と店を開けるための準備に忙しそうにしていた。
「こういうお店、初めて?」
「どうして分かるんですか?」
「見ていれば分かるわよ」
そう言って笑った。
「こういうお店はね。十時過ぎてくらいからが客が多くなるの」
店を開けるのは八時半だったが、店が開いているにも関わらず、客が来てもいいように準備が整っているわけでもない。客足がまだなのが分かっているからなのか、常連さんが多くて、常連さんになら、この状態を分かってもらえるという頭があるからなのか、彼女は落ち着いていた。
「どこのお店も似たようなものなんじゃないかしら?」
「そうなんですね」
信治も、そんな店の雰囲気も、普段と違っていて面白かった。今までスナックに入ったことがあっても、それは誰かの後ろについてきただけなので、別に何も感じなかった。その前というと、予備校で合格者を祝っての宴を催すというものだったが、不合格者に気を遣って、参加者は他言無用とされていた。
そんなことが楽しいはずもなく、すぐに気分が悪くなってきた信治は、
「すみません、お先に失礼します」
と一言先生に行って、部屋を出た。
皆が盛り上がっている中でのことだったので、一人くらいいなくなっても別に大差のないことだった。それに、
――どうせ、大学に入ったら皆とは会うこともない――
元々気を遣っているわけではなかったが、どうにもまわりからの執拗な視線には、鬱陶しさしか感じない。考えていることと、実際に感じることが少し矛盾を抱えていることに気が付いていたが、まわりと接点が多い方が、余計にたくさんの矛盾があるだろうと思っていた。それを思えば、これくらいの矛盾を感じることなど、別に大したことではないに決まっている。
この日、どうして一人でいるのが嫌だったのか、ハッキリと覚えていない。ひょっとすると鬱状態への入り口を感じたからなのかも知れないが、翌日からはそんなことはなかった。ただの思い過ごしだったのだろうが、それでも、スナックに一人で入るなど、それまでには考えられないことだったのだが、入ってみると、後悔したのは、最初の十分ほどだけだった。そえ以降は、女の子の忙しそうな姿を見ていると、どこか微笑ましく思えてきて、どうして一人になりたいなんて思ったのか、忘れかけていた。