三度目に分裂
――逆らう時は逆らう。それ以外は、彼の意見にしたがって話をすればいいんだ――
と感じていたはずだ。
普段は、相手の話に合わせている信治だったが、意固地なところはある。それを知らないと、彼の孤独な気持ちの中に割って入ることはできない。
もっとも、そこまでして彼の気持ちの中に入ろうなどという人はいない。言い争いになることはほとんどなく、あるとすれば、先輩と意見を戦わせている時だろう。それでもお互いに分かっていることなので、会話は噛み合っている。言い争いというよりも、激論という方が適切であった。
この日、信治は歴史小説を読みながら、そんなことを考えていた。
信治は、本を読む時、何かを考えていることがほとんどだった。集中して読んでいるつもりでも、気が付けば何かを考えている。我に返った時などは、
――あれ? 今何を考えていたんだろう?
と思ったものだ。
我に返るほど無意識に何かを考えながら本を読んでいる時というのは、本当に集中している時だった。気が付けば時間があっという間に過ぎている。自分の意識としては三十分くらいのつもりだったのに、時計を見ると二時間近く過ぎていたりする。
――えっ、もうこんな時間になっているのか?
ビックリさせられることもしばしばだった。
戦国時代の話や、明治以降の話が一番好きな信治は、やはり歴史の事実や時代背景に、まわりの人間が翻弄されながら、いかに考えてきたかというのが、読み込む上での流れだと思っていたからだ。
歴史的な事実を羅列したかのように書かれている本は、信治にとって、想像力を掻き立てるもので、ノンフィクションでありながら、フィクションのような感覚で読むことができる。
――どうせ誰も見てきたり聞いてきたりしたわけではないんだから、フィクションのように勝手な想像をしたっていいじゃないか――
と思っていた。
そのことを先輩に話すと、
「俺にはできないな」
と、一言で一蹴されてしまった。
さすがにムカッときて、
「どうしてなんですか?」
と、食って掛かりそうになる勢いを抑えるようにして聞いてみた。
「そう、カッカするなって」
と、機先を制され、ペースを崩してしまった。
先輩は続ける。
「だって、君の考え方は、歴史を勉強する人のスタンダードな気がするからね。僕が君のような考え方をしまったとしたら、その時点で歴史に興味を失うかも知れない」
信治にとっては、驚愕だった。
自分にはまわりと同じような感覚はまったくなかった。自分も先輩と同じようにまわりと同じであれば、その時点で歴史に興味を持つことを失うだろう。
――先輩の言っていることは信じてはいけない――
そう思うしか、その時はどうしようもなかった。
話としては聞いておいて、それを事実だと思わないようにした。
――真実かも知れないが、事実ではない――
真実と事実の違いにこじつけて、自分を納得させようとしていた。
真実というのは、その人にとっての信じる実であって、事実である必要はないと思っている。だから、
――事実かも知れないが、真実ではない――
という考えも成り立つ。
信治は敢えて前者を考えたのは、
――事実でなければ、自分を納得させることができる――
という考え方があったからだ。
逆に言えば、真実なのかも知れないという思いが結構強いことを示していた。
ただ、真実かどうかは自分が決めること、いくら先輩と言えども、勝手には決めつけることはできない。それなのに、先輩に聞いてしまったのは安易な気持ちからだったということを自分で後悔していたのだ。
信治は先輩が来るまでに結構本を読んでいた。
最初は、ゆっくりめのペースで読んでいたので、
――三分の一も読めればいいかも知れないな――
と思っていたが、気が付けば、半分近くまで読み込んでいたのに、まだ先輩がやってくる気配もなかった。
時間は、まだ先輩が来ると思っている時間まで、まだ少しあった。それなのに結構読み込んでいるのは、それだけ集中していたからだろう。
――もう少し読んでみよう――
と思って読み込んでいた。
すると、しばらくしてから先輩が現れたのだ。
意識していた時間に比べてあまり変わっていないが、読み込んだ本は、途中我に返った時から比べて、それほど先に進んでいなかった。
――一度我に返ると、同じ行動をするにしても、頭の中でリセットされてしまうんだな――
と、時間の感覚への思いを浮かべていた。
表を見ると、すでに日は落ちていて、夕凪すら通りすぎていたのを感じると、ホッとした気持ちになるのだった。
先輩は、入ってくるなり、コーヒーを注文すると、差し出されたお冷を、半分近く一気に飲み干した。息切れもしているようで、急いできてくれたことは、見て取ることができる。
「待たせてはいけないと思ってね」
そこが先輩の男気だった。
自分が今日は呼び出しているので、最後まで気を遣わせてはいけないという思いからであろう。その気遣いが嬉しくて、先輩とだけは、これからもずっと知り合いでいたいと思っている。
「ありがとうございます」
そう言って、自分が本を読んで待っていたことを示すように。自分の顔の横くらいに本を翳して、見せつけた。
「本を読んで待っていてくれたんだな。結構進んだかい?」
「ええ、最初はゆっくり目。そして、途中から結構一気に読み込んだんですが、途中で一度我に返ると、そこから先はゆっくりペースだったですね」
「そうだろう。そうだろう」
と言って、大きく二、三度頷いていた。
「俺もそういうところがあるんだ。長時間読んでいると、必ず何度か我に返ったりするものさ。そのたびに、時間の感覚も、集中力も一度リセットされる。珍しいことではないし、誰にでもあることだって思っているよ」
「そうなんですね。それを聞いて少し安心しました」
「君は、ほとんど人とこういう会話をしないようだから、多分分からないんだろうね」
「そうですね」
「ところで、どれくらいの人と接触があるんだい?」
「接触という意味で言えば、結構いるんだろうと思いますが、自分が意識している人はごく一部です。ただ、小学生の頃は意識しているつもりはなかったんですが、近くを誰かが通っただけで、ついつい避けてしまうことがあったんですよ。別に何かをされるという意識があったわけではないんですが、不思議です」
「一度、静電気のようなものが走って、それが意識の中に残っているんじゃないのかい?」
「それはあるかも知れません。自分では覚えていないのですが、言われてみれば、そんなことがあったのかも知れません」
「人というのは、ショッキングなことがあれば、それを隠したいという意識が働くもので、それが時には夢で見たとして自分を納得させようとすることもあるんじゃないかな? デジャブという現象もその一つなのかも知れない」
「なるほど、デジャブについては、それほど意識を持って考えたことがないんですよ。科学的には証明されていないということだったので、僕が勝手に想像しても、それが正しいのか間違っているのかが分からないからですね。そんな無駄なことはしないというのが、自分の中のポリシーのようなものでした」