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三度目に分裂

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「根拠というわけではないが、さっきも言ったように鬱状態だけの金縛りを眠りに就く前に感じるという狭い範囲での感覚は、内部から来ているものではないかと思うんですよ。足が攣るのは、身体の内部からだけど、金縛りは身体は外部からなんだけど、不安に感じることで、感情や精神は内部から沸き起こるものだって思うんだよね。でも躁鬱症というのは、感情や精神は内部からではなく、外的な要因からだって思うんだ。だから感情や精神が内部から沸き起こる金縛りを有している君には、それ以上外的な要因は起こらないんじゃないか。それが根拠といえば根拠になるのかな」
 話を聞いていると説得力があった。
――やはり、金縛りと躁鬱状態というのは、一人の人間の中で共有することはないんだ――
 と感じさせた。
 この思いが次第に大きくなり、その後、ある人の出現で、より一層の信憑性を感じることになるのだが、それはまた後の話であった。
 鬱状態とは思えないほど饒舌な先輩の話には、鬱状態でしか感じることのできないものがあったことを、後になって気が付いた。
――今日、先輩は何が言いたくて僕を呼び出したんだろう?
 会話が進むにしたがって、その思いが薄れていったが、金縛りと鬱状態というのが一人の人間の中で共有できないということに気づいた時、急に我に返ったように、そのことが気になってしまった。
 話をしながら、会話が盛り上がってくると、先輩は額に必要以上の汗を掻くという特徴があることに気づいていた。
 しかし、この日の先輩は、ほとんど汗を掻いているわけではない。そのわりに気持ちが高揚しているのがハッキリと分かった。冷静な先輩も知っているだけに、この矛盾した雰囲気に、会話に引き込まれながらどこか置いて行かれているような気がした自分がいたことに次第に気づいてくるのだった。
 その日の先輩との話はそれで終わった。いつもであれば、
「呑みにでも行こうか?」
 と言ってくれるのだが、さすがに鬱状態がまだ終わっていなかったせいもあってか、そんな話は一度も出なかった。それでも、
「また近いうちに」
 と先輩がいってくれたので、少し安心した。
 その近いうちが、今日だったのだ。
 すっかり先輩は元気になっていた。
――鬱状態の時とは明らかに違う――
 と感じたが、躁状態というほどでもなさそうだ。
 いつもの冷静な先輩が戻ってきたようで、話しやすくなったことが嬉しかった。前回では話のほとんどが先輩主導だった。高校時代の二人は、お互いに会話に関しては気を遣うこともなく、言いたいことを言い合った仲だった。それを思うと、前回は鬱状態の相手に、自分が臆していたかのようで、少し複雑な気持ちだった。
 扉を開けると、最初、先輩は気づいてくれなかった。どこかあらぬ方向を見ているような気がして、心ここにあらずと言った感じだろうか。
――まだ鬱状態が続いているのかな?
 と感じたが、本人はすぐに抜けるといっていた。
 それであれば、躁状態も抜けて、再度の鬱状態に入ったのではないかと思うと、どう接していいのか身構えなければいけない自分が不安に思っているのを感じた。
 しかし、すぐにその不安は解消された。先輩がすぐに見つけてくれて、ニコニコといつもの笑顔を見せてくれた。最初は、どうして気づかなかったのか確認したかったのだが、笑顔を見るとそんな気持ちは吹っ飛んだ。いまさら蒸し返してお互いが嫌な思いをする必要などないと思ったからだ。
 先輩は信治を見るといきなり、
「この間は、呑みにも誘えなくてすまなかったな。今日はゆっくりできるのなら、夜も付き合ってもらいたいものだ」
 と言って、声を挙げて笑った。
 先輩の声はハスキーなのだが、重低音が結構響く。空きっ腹なら、こちらのお腹にも響いてくるほどの声だった。
「今夜、大丈夫だよね?」
「ええ、大丈夫です」
 普段の先輩なら、最初から夜も付き合ってほしいのなら、そう言ったはずだ。いきなり思いついたのか、それとも、こちらの様子を伺ってから決めたのか、すぐには分からなかった。
 しかし、その日の先輩はどこかぎこちなさが感じられた。いつものキレがないというか、言葉に重みのようなものが感じられなかった。
――やっぱり、心ここにあらずというところなんだろうか?
 午前中の会話は、最初は政治経済の話から始まった。鬱状態の時に先輩が読んでいた本だったが、
「あの時から、政治や経済について勉強してみると、結構面白くてね」
「先輩が、政治経済なんて、信じられませんよ」
 というと、
「まあ、そういうなよ。俺は元々歴史は好きだったんだから、政治経済に興味を持つのは不思議なことではないんだぞ」
「確かにそうですけど、政治経済を勉強して、人との会話に活かそうというおつもりなんですか?」
「それもあるね。将来の就職活動にも勉強していて損はないからな」
 今までの先輩から、将来の話が出るというのも珍しかった。
 やはり、鬱状態を経験したことで、先輩の中の何かが変わったのかも知れない。
――ということは、僕も目に見えないようなところで、何かが変わっているのかも知れないな――
 と感じた。
 政治経済の話が少し一段落してくると、やはり花が咲くのは、歴史の話だった。
「鬱状態の時に、最初は好きな歴史の本をいろいろ読んでみたんだ」
「ええ」
「だけど、今までなら時代を遡って見てみたいという気持ちだったのが、逆に気になった時代から順を追って歴史を見てみたいという気になったんだよね。今までだったら、学校の勉強と同じ切り口なので、新しいものは見えてこないというのが、俺の考えだったんだけど、鬱状態になると、今までできないと思っていたことをやってみたくなったんだ。それが歴史を遡るのではなく、時系列に合わせて進んでみるやり方だったんだ」
 学校の勉強を毛嫌いしているところがあると思っていた先輩らしい発想だった。
 信治も歴史が好きだったが、さすがに歴史を遡って見ていくようなことはできなかった。それは歴史を一度サラリと知った上でのことであれば分かるのだが、結果から原因を見つめるのは、理由が分からないと理解できない気がした。先輩も一度は歴史をサラリと勉強し、奥深いところを遡って見ているのかも知れない。
「歴史というのは、人物から見るか、その出来事から見るかによっても違ってくるし、流れで見るか、それとも、その時々の「地点」で見るかによっても変わってくる。俺は、最初から分からなくてもいいと思っているんだ。最初は感覚的なものが分かった上で、例えば最初に人物から見たのだとすれば、今度は出来事を掘り下げてみる。そうすると、その人が何を考えていたのかというのが、おぼろげに分かってくる気がするんだ。いろいろな切り口から見ることで、一つの考えに固執することがなくなるんじゃないかな?」
「そういえば、以前、歴史の番組で、その時々の地点を目印にして、誰が何を考えて行動したのかということをテーマにした番組がありましたが、僕は好きでしたね。学校では教えてくれないような話もいっぱい出てきて、歴史を知ることは、本当に教養の幅を広げることになると思いましたからね」
作品名:三度目に分裂 作家名:森本晃次