三度目に分裂
「なるほど。僕も、一人の時は、何かを考えていることが多いと思っているですが、きっと先輩のいうほど考えていないと思っています。無意識の時は何も考えていなかったということを自覚できているんですよ。だから、先輩ほど考えているわけではないと思います」
「でも、君は何かを考えることが億劫に感じたことってないだろう?」
「ええ、確かにあらためて考えると、確かにないですね。考え始めるまでの意識がないので、気が付くと考えているんですよ。だから、億劫に思う必要性がないという感じですね」
「俺の場合はそうじゃない。何かを考えていることを最初に自覚させられるんだ。もちろん、自覚するのも、自覚させるのも自分なんだけどね。きっと、最初の自覚の段階で億劫だって感じてしまうと思うんだ。君のように、最初に意識がなければ、億劫に感じることもないのかも知れないな」
「先輩は、一体何を考えているんです?」
「その時々によって違うんだけど、主に、読んだ本の内容を思い出しながら考えていることが多いかな? 俺が読む本は、カルトな本が多いので、余計にいろいろな発想が浮かんでくるんだ」
「確かにその通りですね。先輩が読む本は僕が読む本とも違っているし、本の中に入り込むことが多いんですか?」
「小説というわけではないので、物語ではない。どちらかというと、ノンフィクションだね。でも、それだけに想像力がなくても、本を見ながら考えることはできる。小説のように、主人公でもなければ、客観的に見ているわけでもない。『自分だったらどうする?』という発想が一番思い浮かぶのがノンフィクションじゃないかって思うんだ」
「先輩が小説とかを読まないのは、そういうことを考えていたからなんですね?」
「そうなんだ。もし、小説やフィクションを読むんだったら、自分で書いた方がいいって思うかも知れない」
「小説を読むこともなく、自分で小説をと書ける思っているんですか?」
「ああ、そう思っているよ。下手に人の話を読むから、余計な発想が浮かんできて、自分の世界に入り込むことができなくなるんだ。それなら、シミュレーションができるノンフィクションの方が想像力をたくましくできる。『事実は小説よりも奇なり』っていうだろう?」
「確かにそうかも知れません。でも、僕には無理な気がします」
「俺も無理だって思っていたんだ。でも、やってみるとできるような気がしてきた。それは『今だから』という思いがあるからで、つまりは鬱状態に陥ったことで、小説を書けるんじゃないかって思えるようになったということなんだ」
「僕は、今まで鬱になったことがないので分からないです」
と言った自分に対して、
――何て冷たい言い方をするんだ――
という思いと、
――これは、小説を書けるようになったと言っている先輩に対しての嫉妬なのかも知れない――
と感じた。
自分も、
――絵を描けるようになりたい――
とずっと思ってきたはずだった。
しかし、なかなかその思いを成就できることはない。今は、気持ちに余裕を持つことを考えていこうと思っているところなので、一種の膠着状態だと言ってもいい。
「先輩が今日僕に会いたいと思ったのは、小説を書けるようになったことへの話なんですか?」
「元々、小説は以前から書きたいと思ってきたが、なかなかうまくいくことはなかった。君が絵を描けるようになりたいと思って、いろいろ試行錯誤しているのと同じ感覚だよね」
「ええ」
「俺は、鬱状態というきっかけがあったことで、小説を書けるようになったって思っているんだ。だから、君も何かのきっかけがあれば、絵画に目覚めることができるかも知れない」
「ところで鬱状態って、どんな感じなんですか?」
「鬱状態になると、まず、自分が何かを考えていることに気が付く。そして気が付いたはいいが、何を考えているのか、分からなくなってしまうんだ。つまりは、鬱状態の間は、気づいてしまうと、分かるはずのことが分からなくなってしまう。歯車が噛み合わないというよりも、本当であれば、時系列の流れになっていくはずのものが、一度途切れてしまって、新しく生まれてくるんだ。そのために、普段の自分を否定されているような気持ちになり、『何をやっても、すべてがうまくいかない』と思い込んでしまう。だから自分のやっていること、考えていることが、すべて許せなくなるんだ。その状態を『鬱状態』というんじゃないかな?」
「そうなんですね」
「鬱状態に陥ると、最初は分からないけど、次第に許せない自分をまず感じる。何が許せないのか分かるはずもなく、自分が普段考えていることを許せなくなると思い込むんだ。その時には時系列という意識はない。普段は無意識のうちに時系列を感じているはずなのに、鬱状態に入り込むと、過去のことが、どれが先だったのかということが分からない。そのために、順序立てて考えることができなくなる。それがきっと自分を許せなくなるんだろうね」
「じゃあ、鬱状態というのは、頭の中で堂々巡りを繰り返すことから来ているということなんですか?」
「そういうことなんじゃないかって思うんだ。だから、出口のない迷路をずっと彷徨っていると、焦りが生まれてくる。焦ってくると、想像力が急に豊かになるんだけど、その時に想像することというと、堂々巡りを連想させることばかりなんだ」
「たとえば?」
「大きな箱を開けると、その中に少し小さな箱が入っている。その箱を開けると、またその中に箱が入ってくる……。つまりは、永遠に箱を開け続けるんだけど、どんなに小さな箱であっても、決してなくならないんだ。限りなくゼロに近いという言葉がピッタリだね」
「今、先輩のお話を聞いていると、僕も以前に、似たような思いをしたことがあったような気がします。それがいつだったのか分からないんですが、もしそれが鬱状態だったのだとすれば、僕が頭の中に描いていた鬱状態というのは、まったく違った感覚だったということになります」
「鬱状態というのは、その人それぞれで感じ方が違うんじゃないのかな? 君にとっての鬱と、俺にとっての鬱だって違う。だけど、根本が同じだとすれば、今君が思い出した状態は、本当に鬱状態だったのかも知れない」
「なるほど、少し勉強になりました。先輩は実際に小説を書いているんですか?」
というと、少し照れくさそうにした先輩だったが、それでも笑顔というわけではなかった。
「ああ、書き始めたよ。でも、まだまだこれからというところかな?」
「先輩は、どんな小説を目指しているんですか?」
「時代小説を書いてみようと思っている。歴史小説を読んで、史実を勉強したので、時代小説を目指したいんだ」
「歴史小説と、時代小説の違いって何なんですか?」
「歴史小説というのは、史実に基づいて、時代考証もしっかり描くもので、時代小説は、史実に捉われることなく、自由な発想で書けるものだね」
「じゃあ、歴史小説はノンフィクションで、時代小説がフィクションだって思っていればいいんですか?」
「その通りだよ」