樹海の秘密
都会のマンション住まいから、いきなり田舎に引っ越した時、まだ小さかったくせに、自分が都会から来たことを、少し鼻にかけていたことがあった。
父親の会社も、地元の会社で、県内のどこに転勤になるか分からないような仕事をしていた。ただ、中学に上がる頃には転勤もなくなり、一か所に落ち着くようになった。本社勤務が決まったからだということだ。
都会から田舎に引っ越した時、カルチャーショックに陥ったのは母親だった。それでも子供の前では健気に笑顔を見せていたので、何ともないと思っていたが、実際にはそうでもなく、夜にはよく夫婦喧嘩をしていた。母のストレスのはけ口は、父親と喧嘩することだったのだ。
そんな家庭の事情を知らない敦少年は、転校した学校で、最初は都会から来たということで、ちやほやされた。転校してきて一か月ほどは、いつも敦少年の周りには、人だかりができているほどだったが、そのうちに、さすがに億劫になっていった。
何がきっかけだったのか覚えていないが、きっと誰かに対して、億劫な気持ちをぶつけるような言い方を下のだろう。次の日から、敦少年のまわりに、誰もいなくなった。
子供というのは残酷で、それからしばらく嫌がらせが続いた。
学校の下駄箱に靴を入れていると、片方がなくなっていたり、机の中に人の教科書が入っていて、それを敦少年のせいにしてみたりと、小学生低学年の発想なので、それくらいのことだったが、少年にとって、ショックは計り知れないものだった。
まわりの皆の目が怖かった。蔑むような眼というのは、ああいう眼のことだったのだ。椅子に座っている自分に対して、皆まわりを囲むように胸を張って、顎を突き出して見下ろしている。
――何て冷たい目をしているんだ――
恐怖に震えが止まらなかった。その頃は分からなかったが、いつの間にか苛めがなくなってしまうと、やっと閉鎖的で対田的な人間性というものの正体が分かった気がした。
苛めはなくなったが、誰も敦少年のことを意識する人はいない。完全に無視していて、まるで目の前にあっても誰にも気づかれることのない「石ころ」のようだった。
「田舎の人というのは、都会から来た人に対して、最初は物珍しさからなのか、近寄ってくるが、しょせん相手が都会の人間だと分かってしまうと、心を閉ざしてしまう。嫌がらせも平気でするようになるのは、田舎者同士の結束が固いから、集団意識の中で、悪いと思う感覚がマヒしてしまうんじゃないか?」
という分析をしてみたが、それで苛められたのではこっちが溜まったものではない。こちらもたった一人ではあるが、少しでも抵抗してやろうと思ったものだ。
敦は、中学受験することに決めた。県立中学を受験し、合格すれば、この街だけの生徒ではない。そう思って、五年生くらいから一生懸命に勉強した。おかげで県立中学に合格し、それまでの閉鎖的な環境から逃れることができた。
敦は、あまりまわりの環境にすぐに馴染める方ではない。性格的には不器用で、自分が思っていることをすぐに顔に出してしまうところがあったので、なかなか田舎に馴染むことができなかった。
しかも、苛めを味わうと、相手が謝ってくるまで、意地でも相手に折れるようなことはしたくなかった。
「正直者だが、頑固者でもある」
というのが、敦の性格の根底にはあった。
小学生の頃は、田舎を転々としていたので、苛められたのは、最初の田舎の学校だけだったが、どうしても、その時のトラウマが残っていたので、転校した学校でも馴染むことができなかった。
――やっぱりここも閉鎖的なところなんだ――
それが県立中学に入学を希望した理由だったはずだ。
しかし、皮肉なことに、中学に入ると、今度は一転して都会暮らしだ。
――本当に皮肉なものだ――
と思ったが、勉強をしていて損なことはない。
今までの低俗な連中と違った人たちと一緒にいられることは、嬉しかったのだ。
だが、今までと違い、まわりは自分と同等か、優秀な連中ばかりだった。気が付かないうちに、自分の気持ちの中に優越感が芽生えていたことを、中学に入って気づかされた。まわりが優秀な人ばかりなので、今度は今まで味わったことのなかった劣等感を味あわされることになった。
それからの敦は勉強をすることはなくなった。成績も中の上くらいだったものが、中学を卒業する頃には、下の方になっていて、中間一貫教育だったこともあって、高校には進級できた。
高校時代に知り合った一人の友達のおかげで、何とかグレずに済んだが、あのまま行っていればどうなったか、今から思えば恐ろしい。
その友達は、何を言っても怒ることはない。ただ、心から笑っているような表情を見たことがなかったのが気になっていた。極端に喜怒哀楽を表に出すことのないやつだった。
敦も喜怒哀楽をあまり表に出すことはなかったが、今まで自分のまわりにいた連中は、喜怒哀楽を簡単に表に出していた。そんな連中を見ていたので、敦自身が喜怒哀楽を表現することはなかった。何か楽しいことがあっても、相手に先に喜びを爆発されたら、こちらはどんな表情をすればいいのか分からなくなってしまう。
ついつい相手に合わせてしまう性格は、子供の頃に気づかない間に相手を傷つけてしまっていたことが頭にあったからだ。相手が閉鎖的な連中だったので、それが苛めに繋がったことがトラウマとなってしまったが、本当は最初に自分が相手を傷つけてしまったことが原因だったということは、自分でも分かっていた。
彼の名前は、飯塚智也と言った。飯塚君は、どうして喜怒哀楽をあまり表に出さないのか、なかなか分からなかった。そんな飯塚君と話をしていると、自分の中にあるものが掘り起こされるようで、自分の中にあるトラウマを再認識できた。
いや、気づいているつもりで気づいていなかったのかも知れない。飯塚君と話をしているうちに、もう一人の自分が過去の自分を掘り起こしている感覚を覚えた。こんな感覚はそれまでにはないものだった。
――こんな感覚は他の人にはあるもので、飯塚君と知り合えて、自分もやっと人並みになれたんだ――
と感じていた。
飯塚君に知り合うまでは、成績がみるみるうちに下がってくることで、自己嫌悪に見舞われていた。
――これが俺の本当の姿なんだ――
自虐的な考えが頭の中に充満し、何とかそんな自分を納得させようとしている。
しかし、それは本当の自虐ではなかった。
自虐を演出することで、自分を納得させようとするのは、まわりに対して気を遣っていると感じさせるもので、言い訳がましい自分を隠そうという思いがあったのだろう。
――まわりの人は、そんな俺の考えを分かるはずもない――
と思っていたが、そのことを飯塚君に、簡単に看過された。
「他の人も分かっているのかな?」
と、急に心細くなった敦は、飯塚君に聞いたが、
「そうかも知れないけど、そんなことを意識するんだ」
と言われて、ハッとした。
「普通、気になるものなんじゃないの?」