樹海の秘密
「安藤さんという人とお話していると、私も身構えてしまって、なるべく引き込まれないようにしようと思ってはいるんですけどね」
と言って、輝子は笑った。
「はい、安藤さんは最近、この街に入ってこられたんですが、どうやら、樹海に興味を持っているようなんですよ。出版会社の人なら、一度は興味を持っても不思議はないんですが、樹海と言っても、別に何かあるわけではないですよね。確かにこの間、自殺した人が発見されたということですが、『樹海ならでは』という死体ではなかったので、興味をそそるに値するものではないように思うんです」
というと、
「どんな死体だったんですか?」
「首吊りだったんです。樹海での自殺というと、富士の樹海にあるような、『一度入ったら出られない』であったり、『方位磁石が狂ってしまう』という話から、死体が発見されにくい場所を狙って自殺するというのがイメージなんですが、これは違うでしょう? 出版社の人が注目するような記事ではないように思えるのは、僕だけかな?」
「そういうことであれば、私も同じように思います。でも、富士の樹海と言っても、言われているほど、大げさなものではないという話ですよ」
「僕もその話は聞いています。今はちゃんと抜けられるような工夫が凝らされていたり、死体も、見つからないところにあるわけではなく、道になっているところから少しだけ入ったところにあったりするらしいんですよね。方位磁石も通じないわけではないらしいし、かなり誇張されて伝わっていることが多いらしいですね。でも、輝子さんは詳しいですね」
輝子が思ったより詳しそうなので、少し気になった。
「ええ、安藤さんからいろいろ教えてもらいました」
「なるほど」
敦の想像した通りだった。
しかも、この想像は敦にとって、あまりありがたい想像ではない。自分の知らないところで、安藤さんと輝子が親密になっていくことに嫉妬していたのだ。
何しろ、自分は今日初めて輝子と会ったのに、安藤さんは、ほぼここで毎回会っているのだ。輝子に対して自分がどう考えているかという以前に、安藤さんとの仲を嫉妬しているという心境は、自分の中にある嫉妬深い本性の表れなのか、それとも、人に先を越されたことへの焦りなのか、それとも、輝子と自分が会えなかったということは、何を意味しているのか、その中に暗示が含まれているように思うからだった。
「安藤さんとは、どんなお話をしているんですか?」
聞いてはいけないことなのだろうが、聞かずにはいられなかった。
ルール違反というよりも、聞いてしまうことで、輝子に、
――何て心の小さな男なんだ――
と思われる方がよほど気になってしまう。
しかし、輝子はそんな考えなどまったくないのか、臆することなく話し始めた。
「安藤さんは、仲良くなるまでは、雰囲気として、大きく手を広げて、目の前の相手を抱きしめてしまおうとするようなオーラを発するんです。オーラだけなら、こちらは身構えてしまいますよね。だから、それを補うかのようにおどけた話をし始めるんです。ちゃらんぽらんに見えるのはそのせいなんでしょうが、そこで安藤さんを見切るような人であれば、あの人の性格から考えると、『この人はしょせん、そこまでの人なんだ』と、冷静に分析していると思うんですよね。そこで安藤さんを見切るような相手ではなければ、初めて自分を出してくれる。その時が安藤さんとの初対面のようなものなんですよ」
「なるほど」
敦はそれ以上、何も言えなかった。
確かに鋭い観察眼だ。そこまで敦は考えたことはなかった。ただ、おどけた性格には何かあるとは思っていたので、見切るようなことはなく、逆に彼に興味を持った。まるで子供のような雰囲気を、正面から見ていいものなのかどうか、それが最初の難関に思えたが、一緒にいる時は、そんなことを感じさせない雰囲気があった。それは、安藤さんがこちらを正面から見つめ、その視線を決して切ろうとはしないからだった。
「安藤さんという人は、魅力的な人ですが、私には男性として見る気が今はしていません。将来的には分かりませんが、安藤さんも今まで、本当に好きになった女性はいないと言っていました」
「その話は僕も聞いたことがありました。でも、酒の上でのことだったので、どこまで信じていいのかと思ったのが本音で、話しながら、適当に流していたような気がします」
「それでいいと思いますよ。安藤さんは人に対して根に持つことはないと思います。最初に見切ることはあっても、一度信じた相手を簡単に信じなくなることは決してないと思います」
「どうして、そう言い切れるんですか?」
輝子の話を聞いていて、言葉だけだと、かなり自信をもって話しているように思えたが、会話として聞いていると、そこまで自信があるように思えない。だから、どうして言い切れるのか、聞いてみたくなったのだ。
すると、輝子は少し黙り込んで俯いていたが、意を決したかのように頭を上げると、
「私の以前知っていた人に似ているんですよ」
「その人は、どんな人なんですか?」
「私が、高校時代に好きだった人です」
「好きになった人がいたんですね。お付き合いしていたんですか?」
「いいえ、私の勝手な片想いの人です。なぜなら禁断の恋になるからですね」
「先生だったんですか?」
敦子は軽くうなずき、
「ええ、そうなんです。なるべく悟られないようにしていたんですが、先生には分かっていたんだと思います。なるべく恋愛感情を私は表に出さないようにしながら、それでも一緒にいたいという思いから、よく先生と二人きりになることがありました。ひょっとすると、まわりの人は皆分かっていたのだと思いますが、一緒にいるのは学校の中だけのことだったので、大きな問題にはなりませんでした」
「先生といろいろなお話をして、そう感じたんですね」
「ええ、そうです。立派な先生でした」
また悲しそうな顔をした。
「その先生とは、高校を卒業してから会われたんですか?」
「いいえ、会っていません。私が卒業してから半年もしないうちに、先生は自殺したんです」
「えっ……」
敦はその話を聞いて、そこまで言わせてしまったことに申し訳ないという気持ちと、自殺というキーワードが最近の自分の感情を敏感にさせていることへの再認識とで、鳥肌が立ってしまったような気がしていた。
敦は、その先生と面識があるわけではもちろんない。しかし、輝子が話しているのを聞いていると、その先生がどんな人なのか分かってきたような気がした。
最初は安藤さんと重ねてみていたのだが、
――微妙に違う――
と思うようになると、決して安藤さんとその先生を重ねてはいけないと思うようになった。
そう思うと、輝子の考えていることが少しずつ分かってくるような気がして、そうなると、その先生がどんな人なのか、おぼろげに見えてきた。
顔まで想像できたのだ。
今までにも、他の人の話をする相手の話を聞いて、その人がどんな人なのか想像することはあったが、まさか顔まで想像できるようなことはさすがになかった。
しかも、思い浮かんだ顔には、自信があった。