樹海の秘密
人がぶら下がって、ダランとしている姿を想像すると、その時の断末魔の表情が自分を睨んでいるように思えてならない。
どんなに苦しまずに死のうと思っても、苦しくないわけはない。断末魔に歪む顔を見たこともないくせに、想像しようと思うのは、どうにも虫が良すぎるような気がした。
以前見た惨劇では、その人の顔を見ることはできなかった。血まみれだったのを思い出すと、血が出ないだけ、首吊りの方が、
「綺麗な死体」
だと単純に思った。
しかし、木にぶら下がっている人間というのも、苦しんでいるはずだ。交通事故なら即死もありえるが、首吊りだと、なかなか死にきれない場合もある。そんな時にどんな苦しみ方をするのか、数十日前に人がぶら下がっていたはずのその場所で想像してみると、想像だけなのに、リアルな寒気を感じるのは、相当な感情移入があるからに違いない。
死を覚悟しても、自ら命を絶つというのは、それなりの代償があるのではないかと思えてならなかった。
敦はしばらくそこで佇んでいたが、すっかり『死』というものを意識しないようになった。
――僕がそんなことを考えていたなんて――
一瞬でも覚悟を緩めると、それまで考えていたことが水泡に帰してしまう。敦はそのことを、初めて思い知ったのだ。
自殺を考えていたことが急に怖くなった。ブルブルと背中が震え、どうしてここに来たのか、その意義を見失ってしまいそうだった。
しかし、ここに来たことで我に返ったのも事実である。ここに来ると自殺しようと思っていた人が思いとどまる効果もあるのかも知れない。
ただ、本当に自分が自殺しようと思っていたのかということすら忘れかかっているので、後から考えて、自分を納得させることができるのかどうか、分からなかった。
身体のだるさは、さっきから噴き出してくる汗に吸い取られているようで、時間が経つほど、すっかりよくなってきた。しかし、咽喉がカラカラに乾いていて、早くこの場から立ち去りたいと思うようになっていた。
敦は踵を返して、その場から立ち去った。気が付けば石段の下まで降りてきていて、いつの間にか西日が水平線の向こうに沈みかけているのが見えていた。
――そんなに長い時間、ここにいたんだろうか?
あっという間だったような気がしたのに、不思議なものだ。
このまま帰宅するのは、却って気持ち悪い気がした。咽喉が乾いていることもあって、いつものバーに寄ってみようと思った。本当なら、最初に寄ってみようと思っていた場所である。
樹海のある神社からは、さほど遠くはなかった。徒歩でも十五分くらいなので、少し考え事でもしながら歩いていれば、きがつけば着いていたという程度の距離である。
普段から歩く時は、いつも何かを考えている。その時々で違っているが、今日は何を考えるのであろう。
神社に来るまでに、何を考えていたのか、忘れてしまった。きっと死について考えていたのだろうと思うが、それほど切羽詰まったような心境ではなかった。気持ちに余裕があったからこそ、覚えていないのだと思うのだが、神社の石段を昇る時、覚悟を再度決めていたのを思い出していた。
――あれ? 確かあの時は、いつの間にか石段の一番上まで来ていたと思ったはずだったのに――
その瞬間には、いつの間にかというほどの意識しかなかったのに、時間が経ってから思い出すのは、その時に意識していなかったことだった。記憶装置というのは、一体どういう構造になっているというのだろう。
バーの近くまでくると、薄い紫色の看板が見えた。
書かれているのは、バー「エッセンス」。どうしてそんな名前にしたのかとマスターに訊ねると、
「バー自体が隠れ家のようなところなので、出す料理にも、ちょっとした隠し味をと思って、この名前にしたんだよ」
と教えてくれた。
「なかなかいい名前ですね」
「ええ、ここに店を開いた時、アルバイトに来てくれることになっていた女の子がつけてくれた名前なんですよ」
「その人は今もいるんですか?」
「いえ、二年ほどで辞めました。もう三年くらい前のことですね」
「いくつくらいの人だったんですか?」
「三十歳くらいだったかな? 名前は鈴子ちゃんといったっけ。不思議な女の子で、ライラックの花が気になると言っていたので、『じゃあ、お店の名前はライラックにしよう』というと、『いえ、それはやめてください』って言われたんです。どうしてなのか聞こうと思ったんですが、睨まれているような気がしたので、それ以上何も聞きませんでした。今から思えば、確かに彼女は、ライラックの花が気になっているとは言っていましたが、好きだとは言っていませんでしたからね。何か彼女にとって曰くがあるのかも知れません」
「誰にでも、人に知られたくないと思うようなこと、一つや二つ、あるものなんでしょうね」
というと、マスターは考え込んだように、
「そうだね」
と一言答えた。
「最近、アルバイトで入った女の子がいるって聞いたんだけど、僕はまだ会ったことないよね」
「あれ? そうだっけ? じゃあ、安藤さんが来る時に、ちょうど彼女が入っていただけなのかな? でも、今日は彼女出勤日なので、会えると思うよ」
ずっと会えなかったというのも、偶然ではないとすれば、今日、樹海に行ったことで、最初はここに寄るつもりはなかったはずだ。
だから、彼女が出勤日だったのかも知れない。客とスタッフの相性というのは、本当にあるのだろうか?
しばらく世間話をしていると、その女性が現れた。
「おはようございます」
入ってきた女の子は、どこにでもいるような普通の女の子で、化粧も派手ではないので、薄暗い部屋では、地味にしか見えなかった。顔色が悪そうに見えたのは、あくまでも店内が暗いだけだったのだろうか。それとも、まだ来たばかりで、接客モードに入っていなかっただけなのか、敦は見てみぬふりをしていた。
「輝子ちゃん。こちら常連の敦君。よろしくね」
とマスターが紹介すると、
「初めまして、照子です。安藤さんからお聞きしていますよ」
「安藤さんから? どんな話を聞いているのかな? 少し怖い気もしますよ」
というと、
「あまり詳しいことは聞いていないんですが、同じようにここの常連になっている部下がいるってお話ですね」
「そうなんですね。僕もまだ安藤さんとは付き合いが長いわけではないので、お互いに分からないことが多いんですよ。ただ、似たところがあるんじゃないかなって思ってはいます」
「私は、ここに入った時、結構安藤さんが来てくれていることが多かったので、いろいろお話しましたけど、安藤さんという人は、一見ちゃらんぽらんに見えて、先を見つめてお話する人なんじゃないかなって思っています」
「それは僕も感じています。唐突に話が変わって、思い立ったように話しだすことがあるんですけど、話の内容に引き込まれてしまって、最初に何を話していたのか、分からなくなることがあるんですよ。その時はお互いに話しに集中しているので分からないんですが、冷静になって考えると、安藤さんのペースに引き込まれていたんじゃないかって思うことが多いです」