心理の挑戦
そこには、山田さんが写っていたからだ。
これが本当の姿のはずなのに、なぜビックリしたのかというと、最初に鏡を見た時、そこに写っているはずの山田さんの姿を確認することができなかったからだ。だから、すぐに反転し、実際の店内を見渡した。
――写っていなければいけないはずの人が写っていない――
この事実をもう一度確かめようと、またしても反転し、鏡を見た。すると、今度は写っていることにビックリしたのだ。
本来はそれが本当の姿のはずだ。いる人が写っているのが当たり前なのだ。では最初に見たのは何だったんだろう?
――幻だったのか?
いるはずの人がいないという幻、それは幻というよりも錯覚と言った方がこの場合では適切な表現であろう。
少しの間、茫然としていたであろう。我に返るまでに少し時間が掛かってしまったせいで、昼休み事務所に戻るのが少し遅れてしまった。
「どうしたんですか? 珍しいですね」
と女性事務員から言われたが、
「ああ、銀行に寄っていたので、思ったより時間を食ってしまいました」
とごまかした。
銀行に寄ることで昼休みが少し食い込んでしまう人もたまにはいた。そのため彼女も別に不審に思うことはなかったようだ。
その日は不思議な感覚を残したまま、午後の仕事をこなしていたが、もちろん仕事に影響することはなく、気が付けば定時が近づいていた。
残りの仕事を考えると、今日も定時で上がれそうだ。そうなると、夕方のイリュージョンに行こうと思った。ランチタイムに行くことがなく、夕方だけ顔を出すということは今までにはなかったことだ。
喫茶「イリュージョン」には、いつものように典子がカウンターの中にいた。そして、カウンターの奥に一人客がいたが、これも恒例の山田さんだった。その様子を見ると急に懐かしさが込み上げてきて、おとといも来ていたのに、かなり久しぶりに来たような気がしたのは気のせいだろうか。
「やあ、こんばんは。昼ぶりですね」
そう言って、山田さんが声を掛けてくれた。
いつになく明るい気がした山田さんの様子がいつもの山田さんとまったく違っていないことで、まるでデジャブを感じてしまうほどの雰囲気に、懐かしさを感じたのかも知れないと思えた。
「はい、お昼ぶりですね」
二人の会話をまったく意識していないように洗い物に精を出している典子は、普段と変わらない様子だった。もちろん、典子は夕方からのアルバイトなので、ランチタイムのことには関心がないのは当たり前のことだった。
最初は、昼に見た不思議な光景について話すつもりはなかったこういちだったが、急に話したくなった。もし、今日会うことがなく、明日になってしまったら、きっと話をすることはなかっただろう。
「山田さん、お昼のお店で不思議なことがあったんですよ」
「ほう、それはどういうことなんですか?」
「僕が、食事が終わってレジで支払いを済ませようとしていた時、目の前にある等身大の鏡に、山田さんが写っていなかったんですね。おかしいと思って、後ろを振り向くと山田さんがいるじゃないですか。で、再度振り返って鏡を見ると、山田さんがいたんですよね」
「それは不思議なことですね」
「ええ、目の錯覚だったんでしょうかね?」
「僕が、不思議だと言ったことを、橋爪さんは分かっていないようですね」
「どういうことですか?」
「あのお店には、レジの向こう側に鏡なんかないんですよ。しかも等身大の鏡なんてないですよ。あの店は夜はスナックになるんですよね。ということは、照明をかなり落とした状態になる。そんな店に鏡を架けたりしますか? 気持ち悪いと思うはずですよね」
なるほど、山田さんの話には信憑性があった。説得力があったと言ってもいいくらいで、こういちも心のどこかで違和感があったが、その正体は鏡の存在自体の信憑性だったようだ。
「でも、確かに鏡に今まで気が付かなかったのもおかしいと最初に思ったのも事実なんですが、それも写っているはずの人が写っていないという事実を目の当たりにした時点で、その疑問は吹っ飛んでしまったんですよ」
「じゃあ、橋爪さんは店を出るまで、そこに鏡があることを意識していたんですか?」
「ええ、そうですね。店を出ても、鏡のことが気になって、午後の仕事は上の空だったかも知れません」
本人はそれほど気にしてたとは思っていなかったが、人に話すと思っていたよりも気にしていたような気がしてきたのだ。
山田さんは、一通り話を聞いたところで、少し話を変えた。と言っても、鏡に関わる話であることには変わりないが、山田さんという人に対して、どこか他の人とは違うと最初から感じていたのを、いまさらながらに感じていた。
「橋爪さんは、鏡に写るものすべてが、正確だとお考えですか?」
「えっ? どういうことですか?」
唐突の話に少しビックリした。
「鏡に写るものは、すべてが左右対称ではあるけれど、現実の世界を忠実に写し出しているというのは当たり前のことですよね」
「ええ、それ以外に何があるというのでしょう?」
「ただ、鏡に写しだされたものにも、死角というものが存在しているという意識は普通はないと思うんですよ」
「死角……ですか?」
「ええ、死角です。鏡に写った姿と、自分が実際に振り返ってみる姿とでは、距離が違っているので、当然角度が違う。だから、自分の姿が邪魔になって見えないというのも当然のことですよね」
「はい、でも、それは当たり前のことであり、死角というほど大げさなものではないと思うんですが」
「それって、思い込みだって考えたことないでしょう? 自分が振り返って見る光景が絶対的に間違いのないもので、それに対して目の前の鏡には自分も写っているのが当然であり、その後ろの光景に死角が生まれるのは当たり前のことで、死角というのは、自分の身体が隠すものだけだという意識はないと思うんですよ。だから、死角という言葉が大げさだと思うんでしょうね」
「ええ、その通りです」
「でも、角度の違いも最初から考慮しているので、当然どう見えるかというのも、想像がつく。それだけ人間というのが優秀な動物だということになるんでしょう。それが死角を産むんですよ。しかも、それは視覚に対しての資格だけではなく、心理的な死角というものの違いに気づかない」
山田さんの話は難しいが、理解できないことではない。
「そこまで感じているということは、山田さんの中で、そう思わせるような何かが過去にあったということですか?」
「その通りです」
そこまで言うと、少し会話に一段落がつき、二人はコーヒーを口に含み、咽喉を潤していた。
落ち着いてくると、山田さんが話し始めた。
「あれは、半年くらい前だったですかね。他の喫茶店に行った時のことでした。洗面所に入った時に鏡を見たんだけど、後ろに一人の男性が立っていたんだ。まったく気配もなかったので、おかしいと思って振り向くと誰もいない。すぐに気のせいだと思って、トイレを済まし、席に戻ると、座っていたカウンターの奥に一人の客が来ていて、その人の顔がさっきの鏡の中の人だったんだ」
「見たことのある人だったんですか?」