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心理の挑戦

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 しょうがないので踵を返し、他の店に行ったが、他の店は完全に閑古鳥が鳴いていて、いつもは少なくとも十人はいるはずなのに、三人しかいなかったのには驚かされた。
 喫茶「イリュージョン」に、ここの客が今日だけ流れたのだろうか。
 翌日にはちゃんとランチタイムにイリュージョンに行けたので、その日だけだったのだ。
 その日の昼休みも、午前中同様、時間がなかなか絶たなかった。頼んだものがくるのも遅かった。普段はカウンターから、イリュージョンの女の子と話をしたりしていたので退屈はしなかったのだが、この日は手持無沙汰もあってか、寂しさは半端ではなかった。
 寂しさが冷たい空気を足元から忍ばせてきた。
――冷たい空気って、足元から忍び寄るんだ――
 そんなことを考えたこともなかった。
 冷たい空気が下に向かって下りてくるのは常識として意識していたので、クーラーは上に向いているのは分かっていた。自然と上から下に流れてくる冷たさが、部屋全体を冷やすからだ。しかし、最初から足元に忍び寄る冷たい空気などというのは、まるでお化け屋敷のようなわざと演出されたものでなければ普通はないものだと思っていた。
 それなのに、その時はなぜかそんな雰囲気があった。季節的にはもうクーラーをつける時期でもないし、ましてやお化け屋敷の雰囲気を醸し出す必要など、この店にはないはずだった。
 その店は、初めてではなかった。たまにイリュージョンに飽きた時に来ていた店だ。今では完全にイリュージョンの常連になっているので来ることはなくなったが、その頃には昼時は十人近くはいたような気がする。
 久しぶりに来たと言っても、前に来たのは二か月前。その間にここまで客が減ったのだろうか? この日がたまたま少なかったと思う方が普通であろう。
 味にしても、なかなかのものである。一度ツボに嵌ると、この味を忘れられずに何度も足を運びたくなるくらいだ。もし、先輩誘われなければ、こういちもここの常連になっていても不思議はなかった。
 この店の名前は、グリル「まどか」と言った。「まどか」というのは、ママさんの名前らしい。夜になると、スナックとしても営業しているようで、カウンターの奥の棚には、ボトルキープが所せましと並んでいた。
――夜の時間がどれほどの集客なのか分からないが、キープの数だけを見ていると、それなりに流行っているようだ――
 と感じた。
 そうでもなければ、昼の集客だけではやっていけないと感じたのだろう?
 いや、逆に元々スナックをやっていて、後から昼のランチタイムだけ店を開けるようにしたのかも知れない。いろいろ考えてみると、そちらの方が信憑性は高そうだった。
 グリル「まどか」にも、日替わりランチがあった。こういちは気に入ったメニューの時は日替わりでもいいのだが、あまり気に入らなければ頼むメニューがあった。それがポークステーキランチだった。
 その日は日替わりがあまり気に入ったものではなかったので、いつものポークステーキランチを注文した。久しぶりのお気に入りメニューを想像していると、空腹感が襲ってきて、イリュージョンでは感じられない食欲を思い出していた。
 他の客は相変わらず無言で、皆日替わりランチを頼んでいた。さすがに同じメニューなので出来上がりも早く、食べ終わるのも早かった。こういちのお気に入りメニューが出来上がるまでに、皆それぞれ食事を済ませ、出て行った。その間、誰も入ってこなかったので、少しの間一人の時間があった。
 一人の時間を五分ほど過ごしたかと思うと、入り口の自動ドアが開く音がした。
――この時間から入ってくる人もいるんだ――
 時間的には、昼休みの時間帯を半分以上過ぎていて、サラリーマンであれば、とても昼休み終了まで間に合うわけもないと思えた。
 こういちは後ろを振り返り、その人の顔を見ると、そこにいるのが知り合いだったことで、少し意外な感じがして、一瞬固まってしまった。
「こんにちは」
 その人は、後ろを振り返ったこういちの顔を確認して、挨拶をした。こういちも同じように、
「こんにちは」
 と返したが、そこに佇んでいた人は、商店街のブティック店主の山田さんだったのだ。
 喫茶「イリュージョン」でしか会ったことがなかったので、お互いに意外だったのかも知れない。
「山田さんは、たまにこちらに?」
「ええ、たまにですね。ここの食事はたまに食べるのがいいんですよ」
 と言って、彼は特にメニューを見ることもなく、日替わりランチを注文した。
「僕も、事務所が移転してきてしばらくは、こちらに来ることもあったんですよ。ひょっとすると顔は合わせていたかも知れませんね」
 何しろ知り合う前のことだったので、お互いに顔を知るわけもなかったのだ。
「僕は、夜の店の常連でね。商店街の店主仲間で時々来たりしているんですよ」
「そうなんですね。山田さんは、この商店街で結構な顔なんでしょうね」
「そんなことはないですよ。まだまだ若造ですからね。でも、若いからと言って甘えてばかりもいられないのが、店主の辛いところです」
 そう言って、お冷を半分ほど飲みほした。
 その日の山田さんは、普段の山田さんとはどこかが違っているような気がした。喫茶「イリュージョン」で見せる暗さは鳴りを潜めていた。
 だからといって、明るいというわけではない。元々があまり明るい性格ではないように思えたが、意外と当たっているようだった。
 昼休みの残り時間を考えると、あまり喋ってばかりもいられない。頼んだメニューが出来上がってくると、少し急いで食べなければいけないくらいの時間になっていた。頼んでから出来上がりまでそんなに時間が掛かったようには思えないが、気が付けば、想像以上の時間が進んでいたようだ。
――人が少ない寂しい雰囲気が、時間の感覚をマヒさせたのかな?
 と考えるようになっていた。
 山田さんとほとんど話をする暇もなく、せっかくの料理を味わえる程度に食べていると、時間は無情にも過ぎていき、話をする暇など、まったくなくなっていた。
「今度またゆっくりお話ししてください」
 と言って、席を立ち、レジに向かった。
 レジの向こうに等身大の鏡が置かれているのに気が付いた。
――あれ? こんなところに鏡なんかあったかな?
 違和感があったのは間違いなかった。
 ただ、もしこれが顔を写し出すだけの鏡だったら、もっと半端ないほどの違和感があったに違いない。等身大であったことで、ひょっとすれば鏡の存在自体に気づかなくても無理がないことだと思ったのは、今まで気づかなかったことへの言い訳をしているようだった。
 目の前の鏡は、店内を写し出していた。自分の座っていた場所には、食べた後の食器が残っていて、さらにその向こうに……。
「あれ?」
 思わず、声を出して驚きを表現した。
 それと同時に後ろを振り返ったのだが、それは無意識の反射的な動きだったように思えた。
 そこには、確かに山田さんが鎮座している姿が後姿として見えていた。少し哀愁が漂っているのは、店に閑古鳥が鳴いているからなのかも知れない。
 山田さんが写っている姿を確認すると、また身体を反転させて、鏡を見た。
「えっ?」
 また反射的に声を挙げた。
作品名:心理の挑戦 作家名:森本晃次