心理の挑戦
「いえ、見たことはなかったはずなんですが、なぜか懐かしさがあったんですよ。どこかで会ったことがあるような気がしたんですね」
「それってデジャブ現象のようなものですか?」
「デジャブと言えばそうかも知れませんが、鏡に写った顔を見た時だけ、懐かしさを感じたんですよ。席に戻ってカウンターに座っているその人を見ても、懐かしいとは思わなかった」
「それも一種のデジャブなのかも知れませんね」
「その店に入ったのはその時が初めてだったんですが、それから少しの間、ちょくちょく顔を出すようになったんですよ。結局その人と二度と会うことはなかったんですよね」
「そのお店には、その期間だけ行っていたんですか?」
「ええ、このままいけば、常連の仲間入りできると思っていたんですが、ある日行ってみると、お店のシャッターが閉まっていて、貼り紙があったんです」
「どういう内容だったんですか?」
「長い間お世話になりましたが、お店を閉めることになりましたという内容のものでした。その前に行った時には、それらしき話はまったくなかったんですけどね。あまりにも急だったので、あっけにとられた感じですね」
「じゃあ、その時の鏡の謎は永遠に分からずじまいということですか?」
「そうですね。でも、それから少しして、その時の客にバッタリと出会ったんです。何やら思い詰めた表情をしていて、今にも自殺でもしてしまうんじゃないかって感じだったですね。変な言い方をすれば、死相がクッキリと現れていたのを感じました」
「その人はどうなったんでしょうね? 気になります」
「それよりも僕は、その人が僕と店で会ってからその時出会うまでに何があって、そんなにひどい形相になってしまったのかということが気になってしまったんですよ。何かを思い詰めていたのは事実だし、その後どうなったのかというのも気になりますが、そうなってしまった過程が一番気になります」
「山田さんは、鏡に何かの力が宿っていたのかも知れないとお思いですか?」
「そうですね。鏡に力があるのも事実でしょうが、人間の中にある超自然的な力を鏡が引き出したということが言えるのではないかと思うんです。そう考えるのが一番自然な気がするし、何よりも自分を納得させられるような気がするんですよ」
人間の力が何かの媒体によって引き出されるというのは、想像すればできないこともない。
例えば、占い師などが使用している水晶玉なのもそうではないだろうか? 目の前に依頼者を座らせて、自分との間に水晶玉を乗せて、そこに手を翳す。そこにあたかもその人の運命が映し出されたかのように、占いの結果を言う。
「見えました」
それまで目を瞑って水晶に神経を集中させていたのに、カッと目を見開いてそう言われれば、依頼者も信用するというものだ。
占い師にもいろいろいるが、一番占い師としてイメージできるのが水晶玉を使う占い師であり、それだけ説得力もあるのだろうが、裏腹に胡散臭さも隠しきれないのは仕方がないというものだ。
「そんな時だったかな?」
山田さんは続けた。
「実は、その人とそっくりの人を他で見かけたことがあったんですよ。直接話をしたわけではないんですが、その人は明るい人で、集団で話をしていたんですが、その中の中心的存在だったんです。僕には同一人物にはとても思えませんでした。きっと、そっくりな人がいるだけの他人の空似ではないかって思ったんです」
「まったく正反対の雰囲気で、それでも似ていると思ったということは、本当に似ていたんでしょうね。普通雰囲気が違っていれば、似た人だなんて思うことはないんじゃないかって思うんですよ」
「僕もそう思います。ただ似ている人を見かけたということが何か気持ち悪さを感じさせ、虫の知らせであったかのような気がしたので、まさかと思うけど、あの死相が本物だったんじゃないかって感じました」
「そうですね」
「これは後で分かったことだったんですが、その人は、どうやらその喫茶店の関係者だったようです。ひょっとすると、共同経営者だったのかも知れません」
「それだったら、死相が見えたというのも、無理のないことかもですよ? そういう意味では山田さんは、店がなくなってしまうことを看過できたかも知れないということですよね」
こういちにそう言われて、山田さんは恐縮していた。
「では、そろそろ時間になったので、僕は店に戻ります」
いつも、六時半過ぎた頃に、山田さんはそう言って帰っていく。
自分の店の閉店が七時なので、それまでに閉店の準備をするのだそうだ。その日の売り上げの集計や、翌日の発注など、アルバイトの女の子が下調べをしてくれていたものに対して目を通す。
その日は、こういちと話し込んでしまったために、少し遅れてしまった。そそくさと店を出て行く姿が、話をしている時の雰囲気とは違っていた。
「山田さんは、話をしている時は毅然としているのに、話を終えると急に恐縮したようになって、面白い」
典子はそう言って笑った。
こういちも山田さんに対してのイメージを同じように抱いていたので、反論することもなく、黙って頷いた。その様子を横目に見ながら、典子はさらに笑っていた。
「山田さんは、前からあんな感じなのかい?」
「そうですね。でも、朝の時間も来られているでしょう? その時はほとんど無口らしいの。夕方はあれだけ饒舌なのにね。どうやら会話の内容が少し偏っているので、そのために、朝の人たちとは、合わないのかも知れないわね」
と典子が言った。
「朝は商店街の店主たちが集まっているようで、どうしても、経営の話になったりするんでしょうね。確かに山田さんが、経営の話をしているところなど想像できないような気がするんだけど、あの人自体が、現実的なことよりも、理想だったり、妄想だったりすることの話をしている方が合っているのかも知れないね」
と、こういちが返した。
「私は大学では国文学を専攻しているんだけど、学校を一歩離れると、国文学の話はしたくないと思っていますからね」
「それは、学校の仲間に対してでもそうなのかい?」
「ええ、学校の仲間だからこそ、余計に学校の外に出てまで、学校内部の話をしたくないと思うんだけど、おかしいかしら?」
「そんなことはない。僕もそうなんだ」
「私の場合は、お父さんが仕事の話を家に帰ってきてから絶対にしないのよ。お父さんのモットーは『仕事を家に持ち込まない』ということなんだけど、私はそのことに賛成なのね。せっかく自分の家に帰ってきたんだから、帰ってきてまで仕事のことを気にされたくないもの」
「いい心がけだね」
「お父さんは、感情の起伏が激しい人で、普通に話している時でも、何か気に障る話になると、急に怒り出すことがあったのよ。私が子供の頃には、仕事のことをため込んで家に帰ってきていたので、ストレスが爆発したのね。それでお母さんに暴力をふるっていることがあったんだけど、とうとう警察沙汰になってしまって、それ以降は、家では決して仕事の話をしなくなったの。そうすると、不思議とお父さんの性格が変わってきたみたいで、今までに見たことがないほど温厚なお父さんがそこにいたのよね」