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心理の挑戦

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 翌日の目覚めは、さほど良いモノとはいかなかった。前の日、夜更かししたわけでもなく、喫茶「イリュージョン」を出て、そのまま帰宅した。帰宅時間は午後十時にもなっていなかったので、最近としては遅い時間ではあったが、決して翌日に疲れを残すほど遅い帰宅時間ではなかったはずだ。
 顔を洗っても、目が覚める気配はなかった。目が開かないのだ。こんなことは珍しく、目が覚めてから五分以上、ボーっとしていることはあっても、目が開かないほどのきつさを味わったことはほとんどなかった。
 だからと言って、睡魔がひどいわけではない。目が開かないという意識が強いせいで、むしろ睡魔に関しては、さほど意識があるわけではない。感覚がマヒしていると言ってもいいだろう。
――昨日、何か夢を見たような気がする――
 どんな夢だったのか覚えていないということは、怖い夢ではなかったのだろう。ただ、夢を見たということだけが意識の中にあるだけで、ハッキリと見たと言い切れない自分もいたのだ。
「典子さんと話し込んでしまったイメージは頭の中に鮮明に残っているのに、内容は漠然としているんだよな」
 自分主導の話で、確か三つくらいの主題があったような気がするところまでは覚えているが、どこから三つも話が出てきたのか、ハッキリとはしなかった。
――三つのうちの一つが夢だったのかも知れないな――
 そう思うと、何となく分かる気がした。
 ただ、急に話を難しくしてしまったことへの反省は残っていて、それでも、最後はうまくまとめたような気がするのは、せめてもの救いだった。
 洗面台で何度か顔を洗っていると、さっきまで開かなかった目が開くようになってきた。目の前にある鏡を見ながら、
「そういえば、話の中に、鏡のことも出てきたような気がするな」
 目が開いてくると、昨日の話も少しずつ記憶から引き出されてくるような気がした。
 しかし、完全に引き出すことはできないと思っている。もし引き出すことができるとすれば、目の前に昨日と同じように、典子がいなければ、無理だと思っている。
「典子さんを目の前にすると、話の続きになるかも知れないな」
 と、独り言を言っていた。
 鏡に写った自分の姿、本当に無表情だった。
――これが本当の僕の顔なんだ――
 と、無表情の顔しか鏡で見たことがなかったことを感じていた。
 そして、昨日の話のように、急に鏡の中の自分がニヤッと笑ったりしたら、どれほど恐ろしいかを、鏡を前にすることで改めて感じさせられた。
「自分に似た人は、世の中には三人はいるというけど……」
 と、鏡の中の自分に語り掛けたが、もちろん、答えが返ってくるはずもない。
――三人というのは、外国人も含めた三人なんだろうか?
 というくだらない考えを抱き、調べたことがあった。
 実際には、「世界に」三人であり、日本の中だけに言えることではなかった。
 なぜなら、この説を提唱した人が、外国人だからだ。
 では、外国人が「世の中」という場合、それは「世界」という言葉に単純に置き換えていいものなのだろうか?
 くだらない発想が頭の中を巡っていた。
 しかし、こんな発想をずっと続けていれば、果てしない堂々巡りに足を突っ込んでしまうような気がした。まるで底なし沼に入り込み、抜けられなくなる自分を想像してしまう。
――そもそも、底なし沼というのは、本当に存在するのだろうか?
 底がないというのだから、水が張っているというのもおかしいことになるのではないか?
 そんな発想も結局は果てしない堂々巡りに繋がって行く。考えれば考えるほど、同じ位置に戻ってくることを示唆していることになるのだ。
 いろいろ考えているうちに、気が付けば完全に目が覚めていた。一旦目が覚めてしまうと、さっきまで目が開かなかったのがウソのようだ。きっと、今日の目覚めの悪さは明日になれば忘れていて、もし覚えていたとしても、それは遠い過去のことのように感じることになるだろう。
 表に出ると、太陽が眩しかった。空が眩しいと分かっているのに、空を見上げてみたり、今日は確かにいつもと違っていた。
 家を出る時間はいつもと同じだったが、会社までの道のりでは、いつもに比べて人が少ないように感じたのは気のせいだろうか。道を歩いていて、すれ違う人がほとんどいなかった。よくよく考えてみると、学生の数が全体的に少なかったのだ。
――今日は学校が休みなのかな?
 土曜日というわけでも、季節の休暇にはまだ早く、中途半端な時期だった。
 とはいえ、まったく見かけないわけではないので、それほど気にすることもないのだろう。
 そのおかげなのか、通勤電車は静かだった。
 いつもは数人の学生が固まっては、大きな声で話している連中がいた。集まっている学生皆が皆うるさいわけではなく、一部の人間だけがうるさいのだが、その連中がいないだけで、これほど電車の中が静かになるとは、想像もしていなかった。
 そういえば、その日の電車は、歩いている時、学生が少ないと思ったのに、電車に乗れば、少ないわけではない。ただ、群れを成している学生が誰もいないのだ。誰もが単独で、それぞれの場所をキープしていて、話す相手もおらず、教科書を見たり、音楽を聴いたりと、静かなのは嬉しいが、少し学生らしからぬ姿に、気持ち悪さすら感じるほどだった。
 電車を降りると、いつもの商店街を抜けて、会社へと向かう。駅を出ると一斉に、アーケードを通る人の群れに流されるように歩いた。誰もが無言で、同じスピードだった。
 いつも他の人と同じスピードで歩くのが好きではないこういちは、少しスピードを上げて歩いた。
 しかし、どうしたことだろう。スピードを上げたはずなのに、まわりの人のスピードは変わっていない。追い抜こうと、目の前の人に必死にすがるように歩いているのに、いくらスピードを上げても、追い抜くどころか、追いつくこともできなかった。
 かといって、その背中が少しでも小さくなることはなかった。つまりは、こういちの意志とは別に、相手のスピードはこういちとずっと変わっていないということを示していたのだ。
「どういうことなんだ?」
 少し怖くなった。
 確かに前には進んでいる。気が付けば自分が感じているよりもかなり先まで来ていた。スピードを上げているのだから、それも当然のことである。結局、相手に追いつくことなく、会社の玄関まで来ていた。
「本当に今日はおかしな一日の始まりだ」
 会社に着くことで、一段落し、このおかしな現象が終わりを迎えるのか、それとも、これからもおかしな現象を見ることになるのか、その時はまったく分かっていなかった。
 仕事は順調だった。むしろ順調すぎるくらい順調だったのだが、ここまで順調であれば、集中して仕事をしているはずなので、時間があっという間に過ぎてしまうのがいつものことだったのに、その日はなかなか時間が過ぎてくれなかった。昼休みに入った時も、
「やっと昼だ」
 と思ったくらいだったが、なかなか時間が過ぎてくれないわりには、今度は逆に疲れはほとんどなかった。
 いつものように喫茶「イリュージョン」で昼食をと思い出かけたが、その日は珍しくカウンターまで満席で、入ることができなかった。
作品名:心理の挑戦 作家名:森本晃次