心理の挑戦
「それは、閉鎖的な自分の気持ちが見せた幻なのかも知れないですよ。人が鏡を見る時というのは、いろいろなパターンがあると思うんですが、何か悩みがあったり迷っていることがあったりした時、今自分がどんな顔をしているのかって気になるものですよね。そんな時の自分は、無意識に、無表情になるんじゃないかって思うんです。気にはなっているけど、表情を見ると、自分が何を考えているのかが分かってしまう。それが怖いと思うんですよ。だから、無表情を装う。そんな時、鏡の中の自分が本当の自分の心を写してくれるんじゃないかっていう思いを抱く自分もいる。そのために、実際に見たわけではない別の表情を鏡の中に感じてしまったというのが真実なのかも知れませんね」
「確かにそうですね。それだと悪夢でも何でもなくて、悪夢にしてしまっているのは自分だということになりますね。引き合いに出された悪夢もたまったものではないですね」
そう言って苦笑いをした。
「あくまでも考え方なんですよ。悪夢だと思えば悪夢になる。でも、それ以外にも考え方はたくさんある。いろいろな人に意見を聴くのも一つかも知れないけど、相手は選ばなければいけないということもあって、それも難しいですよね」
「ええ、でも、今日はこうやってお話ができて、今まで引っかかっていた気持ちの中のわだかまりが一つ消えたことは嬉しく思いますよ」
「ポエムと詩の違いにしても同じことだと思うんですよ。言葉が違っているんだから、それなりにどこかに違いはあるんだと誰もが思う。そして、いろいろな解釈が生まれ、ひょっとすると俗説が真説なのかも知れないですよね」
「そういう意味では、真実が事実ではないとも言えますね」
「逆じゃないですか? 事実が真実ではないという考えですね。事実というのは、曲げることのできないものであり、真実も曲げることのできないものではあるんだけど、事実と異なっている場合があってもいいんじゃないかって思うんですよ。真実の中に、事実が含まれているという考えですね」
典子の考えはもっともだった。
しかし、こういちは別の考えを持っていた。
「僕は逆も真なりだと思うんですよ」
「どういうことですか?」
「確かに真実は曲げることのできないものなのかも知れないけど、事実がすべてなんでしょうか?」
「どういう意味ですか?」
「SFの世界では、『パラレルワールド』という考え方があります。次の瞬間には無限の可能性が広がっていて、その中の一つを進んでいるのが今のこの世界なんだってね。つまり次元の違いというか、別の次元では、まったく同じ人が違った選択をしたことで違う世界が広がっているというものですね。そうなると、事実と呼ばれるものは一つではなくなる」
「それは、また突飛すぎる発想ですね。私も『パラレルワールド』の発想は知っていますけど、あくまでも架空であって、それぞれの世界では、「事実は一つ」なんだって思っています」
「僕はどうしても『パラレルワールド』を無視できないので、事実が複数あった場合に、真実はどこにあるのかなって考えたんですよ。そうなると、事実が真実ではないという考え方もありなのかなって考えるようになりました」
「お話を聞いていると、『パラレルワールド』で一度別れた事実が、またどこかで交わるということを言いたいのかなって感じましたが、どうですか?」
「確かにそれも発想の一つですね。ただし、砂漠で砂金を見つけるようなものですけどね」
「でも、事実が真実ではないという発想も、同じくらいのものでないかと……」
「まさしくその通りです。実は僕が言いたかったのは、そのことなんですよ。いかに限りなくゼロに近い確率のものであっても、ゼロではない。何しろ可能性というのは、無限にあるからですね」
「その通りですね。やっと意見が一致した気がします。これだって、一度別れた『パラレルワールド』がどこかで一緒になったようなものかも知れませんね」
「ははは、そういうことです。それこそ最初の出発点が同じで、最後は同じ。だけど、その過程が違っているという詩とポエムの違いだと言えるんじゃないでしょうか?」
「結局、今日はどんなお話をしても、最後にはここに戻ってくるんですよ」
「堂々巡りを繰り返しているということですかね?」
「堂々巡りを繰り返しているとすれば、どちらかだと思いますね。どちらかは、一気に結論に近づいて、そこからまるで時間調節をしているように、最終結論を導き出す前で同じ考えを繰り返す。それが堂々巡りという言葉の真の意味なのかも知れません」
「私も何か目からうろこが落ちたような気がします」
その日は、これ以上会話が弾んでしまっては、無限に時間が必要な気がして、キリのいいところで切り上げた。
話をしながらの食事だったが、気が付けばちょうど食べ終わっていた。
「これも、うまく辻褄を合わせたものですね」
「そうですね。辻褄を合わせるという発想は、結構心理学では重要だったりするんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ、たとえばデジャブというのは、自分の記憶にあるものに信憑性を与えようとして、目の前の光景で辻褄を合わせようとして、前に見たことがあるような気がするという思いにさせていると言いますからね」
「でも、まだ根拠はないんでしょう?」
「ええ、解明はされていませんが、理屈としては納得できるものだと思うんですよ。僕はその意見を信じていますけどね」
「私も実は信じています。橋爪さんは、心理学にも興味がおありなんですか?」
「心理学というよりも、何か不可思議な現象や、SFチックだったり、都市伝説のようなものに興味を持ったことはありました。さっきの『パラレルワールド』の発想なんかもその一つですね」
「私も、高校の時に、そういう本を読んだりしたこともありました。もっとも心理学の本は難しすぎるので、簡単な解説の本を読みました。でも、それは筆者の個人的な意見が結構入り込んでいたので、今でもその人の意見が私の頭の中にあったりします。一歩間違えれば、プロパガンダみたいになりかねないですよね」
と言って笑っていた。
「どこかのカルト宗教団体などだったら、プロパガンダになりそうですね。下手をすれば、洗脳なんてことになるかも知れませんからね」
そんな話をしていると、またしても時間が経過していて、
「そろそろ、閉店時間ね」
と、ママさんが奥から出てきた。
時計を見ると、午後八時を過ぎていた。この店の営業時間は、午後八時までだった。
「長居してしまいましたね。典子ちゃん、続きはまたしようね」
と言って、会計を澄まし、表に出ると、すっかりあたりは真っ暗だった。
この辺りは住宅地と商店街の間にあって、街灯もまばらだったので、想像以上に暗く感じられた。
実際にこのお話が進展するのは、ここからで、実際には次の日からのことだった。これまでのお話はプロローグに過ぎず、そのわりに難しい話もございましたが、どうぞ、ご容赦のほど、よろしくお願いいたします。