心理の挑戦
「そんなことはないだろう。それなら二人見えているはずだろう?」
「いやいや、鏡が見えないということは、本物の僕も見えないということさ。ただそれは視覚だけに実現できることで、実際にはありえないことなんだろうけどね。君がいうのは、可能性がゼロということだろう? 僕がいうのは、実際にありえないことであっても、本当に可能性がゼロなのかどうか、考えてみるのも楽しいかも知れないということなんだ」
と、かなり理屈っぽい話だが、どこか無視できないと思う自分がいたりした。
「実際にありえないと思うようなことでも、可能性がゼロではないという発想は、なかなか面白いね」
「理屈っぽいと思われるかも知れないけど、そういう発想から、文明というのは生まれたのかも知れないね」
「そうだね」
その日、もっといろいろなことを話して、発展性のあるものもあっただろうが、後になって思い出すことというのは、これだけだった。しかし、それは思い出そうとして思い出すことであって、ふとしたことから思い出すことがあるとすれば、今は思い出せないその時の話だったりする。しかし、何かのきっかけで思い出した記憶であっても、すぐにまた記憶の奥に封印されてしまう。また、ふとしたことで思い出すこともあるかも知れないが、二度と思い出すことはないかも知れない。それだけ記憶の奥に封印されている意識は、相当数なのだろう。
こういちが、イリュージョンの常連となって、夕方も顔を出すようになってから、夕方のアルバイトの女の子と話をすることが多くなった。夕方の常連さんもいるにはいるが、毎日というわけではない。山田さんも朝は毎日のようだが、夕方の出勤率は、半々くらいであろうか。
こういちは、夕方の常連になってしまうと、日課になってしまった。もちろん、残業のある時は来れない時もあったが、それも稀であり、普段は残業しても一時間程度、十分イリュージョンの閉店時間までには間に合っていた。
夕飯もイリュージョンで済ませるようになった。
こういちのお気に入りは、ナポリタンスパゲティであった。普段はあまりケチャップは好きではないが、ナポリタンだけは昔から好きだった。たまねぎと、ベーコンやソーセージなどとのコンビネーションが気に入っていた。
夕方のアルバイトの女の子は、名前を赤坂典子と言った。近くの短大で国文学を勉強しているということだった。
「国文学って、難しそう」
「高校の頃には、ポエムを書くのが好きだったので、進学するには文学系の大学が短大って思っていたので、ちょうどよかったかも知れません」
「ポエムというとメルヘンチックに聞こえるよね」
「ええ、高校時代自分では、詩を書いているという意識はなくて、ポエムという言葉がピッタリのものを書いていると思っていました」
「どう違うんだろう?」
「私も調べたことはないんですけど、あまり文法や語尾にこだわらないのがポエムなのかなって思っています」
「メルヘンチックというのとは違うのかな?」
「詩でも、ポエムでも、主題には変わりはないと思うんですよ。思いついたことを短い文章にまとめる。それが詩でありポエムですよね。主題にしても、目の前に見える光景を描いてみたり、心の中に思い描いている光景を描いてみたり、心の葛藤もありですよね」
「もし、僕が書くとすれば、詩になるかも知れないですね。僕が短い文章にしようとすると、どうしても文字数を意識したり、語尾を意識するかも知れない。短い文章というのはリズムがあるから生きるんだって思うんですよ。メルディはなくても、リズムがあることで生きてくるという思いから、ポエムというよりも、詩を書くことになると思っています」
「なるほど、その考えももっともだと思います。私も文字数を意識していないとはいえ、書いているうちに、リズムに乗っているのに気づくんです。そういう意味では、最初から文字数や語尾を意識して書いているのが詩であり、意識なく書き始めて、最終的にリズムに乗ったものに出来上がったものがポエムだという考えも成り立つんじゃないでしょうか?」
「僕は、中学時代に、少しだけ俳句に興味を持って、勉強したことがあったんですよ。俳句についての本を少しだけ読んで、自分でも作ってみた。すぐにやめてしまったけど、その時の印象だけは残っているようで、リズムという感覚は、その時から持っていたんですよ」
「書き始める意識と、出来上がった時の気持ちには、詩もポエムも違いはないんだけど、その過程において違っている。それが詩とポエムという言葉の違いなんでしょうかね?」
「何とも言えませんね。皆が思っているように、メルヘンチックなものがポエムの定義なのかも知れませんからね」
「世の中には似ているモノって結構あるんでしょうね。いろいろな意味で」
「鏡に写った自分を見たことがありますか?」
「ええ、私はこれでも女性ですから、鏡はよく見ますよ」
「等身大の自分を写してみることは?」
「あまりないかも知れないですね。洋服を買いに行った時に、試着室で見たりするくらいですね」
「そうですよね。僕は時々鏡を見ていると、急に自分と違うリアクションをする自分がそこにいるんじゃないかって思うことがあったんです。小学生の頃に最初に感じていましたけど、大人になるにつれて、そんな考えは子供だけのものだって思うようになると、考えることはなくなりました。でも、最近になってまた鏡の中の自分が別の表情をするんじゃないかって思うことがあるんですよ」
「ひょっとして、一度そんな経験をされたんじゃありませんか?」
「ええ、錯覚だって思っているんですが、その頃から急に子供の頃の記憶がよみがえってきて、鏡を見るのが怖いくせに、見てしまう自分を感じるんです」
「その経験とは、どういうものだったんですか?」
「ハッキリとは覚えていないんですが、真面目な顔で鏡を見たはずなのに、鏡の中の自分が、一瞬ニヤッと笑ったんです。微妙だったので、もし、他の人が見ていたとしても、気づかないと思います。一瞬だったし、錯覚だと思えば、そう思えないわけでもない。でも、時間が経てば経つほど、その時の笑った自分の顔が瞼の裏にしみついて離れなかったんです」
「今もですか?」
「今はだいぶ、薄れてきています。最初は、このまま消えることはないとまで思ったほどだったんですが、少しでも薄れてくると、今度は、これでもう意識から消えてくれるという根拠のない確信めいたものが浮かんできたんですよ」
「それで実際に薄れてきている?」
「そうですね。いずれ消えるという思いはどんどん強くなってきています。今までが悪夢だったんだって思っていますよ」
「悪夢……、そうですね、悪夢ですよね」
「そうですね」
典子は、少し困惑したような表情をした。
「でも、悪夢だと思わない方がいいかも知れませんよ」
「どういうことですか?」