心理の挑戦
今は完全によみがえっているのを自分でも分かっている。しかし、その記憶がずっと残っているかというと自信がない。むしろ、すぐに消えてしまいそうに感じた。目の前のロウソクが消えてしまうと、そこにいるおばあちゃんも、目の前にそびえている家も、さらには、この一帯すら消えてしまうようで、恐ろしかった。
おばあちゃんは、こういちの方を見た。手で、
「おいでおいで」
しているようだった。
おばあちゃんには、こういちが見えているのだろうか?
こういちにはその視線がまっすぐに自分に向いているのに、見ているのは自分ではないような気がして仕方がなかった。
「おばあちゃん」
と声を掛けてみるが、おばあちゃんの反応に変化はなかった。
「こうちゃん」
おばあちゃんは、声を掛けると、視線を次第に下げていき、誰もいない空間を抱きしめるような素振りをした。
しかし、包み込まれている空気、その間には他の空気は存在しない。つまりは自分が空気だと思ってみているのは、透明の何かを抱きしめている様子だった。それが透明人間であるとすれば、一体誰が透明になっているのか、そこにいるのは誰なのか、分かる気がした。
「おばあちゃん」
小さな声が聞こえてくるようだった。その声は明らかに、こういちが小さかった頃の声だった。姿が見えないだけで、そこにいるのは自分である。
――そういえば、おばあちゃんに抱きしめられたくて抱き寄って行った時、背後に気配を感じた気がしたな――
ちょうどその時、おばあちゃんと守護霊の話をしたような気がした。
今だから思い出せるのかも知れないが、おばあちゃんは自分を抱きしめながら、僕の背後にいる何かを見つめていたような気がする。自分を抱きしめながら別のものに意識が分散しているのを感じたにも関わらず、別に嫉妬したわけでもなかった。
――守護霊ならいいか――
と自分に言い聞かせていたからだ。
――何だ、守護霊でも何でもないじゃないか。そこにいたのは、未来の自分だったんだ――
子供だったら、怖いとは思いながらも素直にこの現実を見つめることができるかも知れないが、大人になって、こんなことが目の前で起きていれば、普通なら、自分がおかしくなってしまったのか、それとも、超常現象の中に入り込んでしまったのかという思いから、恐怖を感じるに違いなかった。
しかし、二十代の自分が信じられる許容範囲は、完全に飛び越えているはずだった。
それなのに、どうして、こんなに素直に受け止められるのだろう。それはきっとおばあちゃんの笑顔が、今も昔も変わらないからだ。
――僕だけが年を取ってしまった――
おばあちゃんは、とっくに死んでしまっていた。
母親から、祖母が亡くなったという事実を聞かされた時、なぜか悲しい気がしなかった。確かに子供の頃にはよく遊びに行っていたが、中学に入ってからは、まず行くことはなくなった。おばあちゃんがどんな顔をしているかということすら忘れてしまっていたくらいだった。
そんなおばあちゃんの思い出は、小学生までだったはずなのに、どうして今になって思い出すことになったのか、それは、子供の頃におばあちゃんに抱き着いた時、おばあちゃんが意識していた自分の背後が誰だったのか、気になっていたからだろう。
――今だったら、誰だったのか分かりそうな気がする――
と思ったとすれば、あまりにも都合がよすぎる。
都合がよすぎる解釈ができる年齢になったことで、再度おばあちゃんのことを想像していると、後ろから見ていたのが守護霊ではなく、未来の自分だったのではないかと思うと、逆に自分が守護霊になったつもりで想像を膨らませることができるのではないかと思ったのだ。
こんな感覚は初めてだった。
大人になって子供の頃のことを思い出す機会は、むしろ増えてきた。それだけ守護霊だと思っていた子供の頃の自分の気持ちが、今なら一番分かると思うようになったからで、今の自分も後ろから誰かに見られているような気がするのも気のせいではないかも知れない。
「四十代の自分だったりして」
と、冗談のつもりで口にしてみたが、どうにも笑えない自分がいるのも事実だった。
子供の頃から見た二十代の自分に比べると、二十代の自分から見る四十代の自分は、そんなに変わっているわけではないと思うに違いない。
「三十代に入ると、一気に時間の流れが速くなるものだ」
と言っていた先輩の話を思い出していた。
そんなことを考え倣が歩いていると、急に目の前に白い閃光が走った。
「キュルルルル」
何の音か、すぐには分からなかったが、危険な音であることは想像がついた。その音とともに、こういちは、自分の頭の中が走馬灯のように過去の記憶がよみがえってくるのを感じたが、一番印象に残っているのは、
「おばあちゃんを見た」
ということだった。
しかし、おばあちゃんの姿を見たのは、白い閃光を確認する前だったはずだ。子供の頃の記憶の中にあったおばあちゃんの家の縁側に佇んでいた姿が印象的で、その笑顔は忘れられない。
白い閃光を浴びた時、そのおばあちゃんがニヤリと笑うと、
「お前を見た」
とその口が動いたことを感じた。
――どうしておばあちゃんが?
おばあちゃんの顔がみるみるうちに変わっていく。
恐怖に歪む顔をしているはずのこういちに対して、その顔は容赦なく、笑顔を投げかける。
そして見覚えのある顔になり、
「私、あなたに似た人を見たのよ」
と言っている友香であったり、次の瞬間には、
「お前を見た」
と言って、不敵な笑顔を見せる典子だったりしているのを見ると、自分が交通事故に遭ったのだということに気が付いた。
「ここは一体、どこなんだ? 僕は死んだのか?」
というと、
「あなたは死んでいないわ。死んだのなら、私たちにここで出会うことはないからね。しいていえば、あなたは夢の中にいると言った方が一番適切なのかも知れないわね」
そう言ったのは、典子だった。
友香が現れた時は、
「あなたに似た人を見た」
と言っただけで、何を言っても、答えは返ってこないと思えるような表情を見ると、何も聞けなくなってしまった。
もっとも、無表情の相手に何を聞いていいのか分かるはずもなく、金縛りに遭っている自分が分かった。無表情以外の由香を想像することは、ベッドの上でロープによって縛られている自分を、心配そうな目で見ている友香を想像することしかできなかった。
――僕は一体、どうなってしまったんだろう?
こういちは、夢を見ている感覚に陥っていた。
「手術はうまくいきましたが、昏睡状態は少し続いています。そのうちに気が付くでしょうから、その時は個室に移しますね」
「ありがとうございます」
救急病院での明け方の会話だった。
昨夜の十時過ぎくらいに緊急搬送された交通事故に遭った男性を緊急手術した。名刺からその人が橋爪こういちであると分かると、会社の上司には、翌日の朝しか連絡が取れない状態だった。
交通事故を知らせてきたのは、友香だった。