心理の挑戦
というものだった。
それがどんな薬品なのか分からないが、微妙な匂いの違いを感じることができた。ただ嫌な匂いというわけではなく、それだけに、
――気づかない人には気づかないだろう――
と思わせた。
店の中に入ると、
「あら、珍しいわね」
と言って、ママさんが声を掛けてくれた。
カウンターにはもう一人女の子がいたが、彼女とは初対面だった。ランチタイムの女の子はすでに帰っていて、夕方には違う女の子が入るのだと分かった。
ランチタイムに入っている女の子は主婦だと言っていたが、なるほど、夕方までには上がることで、買い物や家事を普通にこなせるということだろう。夕方の女の子は見るからにのんびりしていて、客の少ない時間にふさわしい雰囲気に感じられた。
夕方に初めてきたのは、先輩が異動になって一週間ほどが経ってからだった。その日仕事は残業なしで終わり、電車に乗ろうとすると、満員電車が待っているのは分かっていた。それでも満員電車に乗るつもりで会社を出たのだが、表は思ったよりも、暑さは残っていた。
――残暑にしても、日差しがきついな――
西日がまともに、駅まで歩いていると、目に突き刺さってきた。
日差しの強さで一気に身体に気だるさを感じると、このまま帰ってしまうのが億劫な気がした。
――そうだ、イリュージョンに行ってみるか――
ママさんが驚くだろうなという思いを抱き、歩いていると、西日に照らされたイリュージョンが見えてきた。
中に入ると、まるで違う場所に感じられたのは、先ほど記した通りである。
その時に客は一人だけで、カウンターに座って、コーヒーを飲んでいた。
その人は見たことのない人で、常連だということは分かったが、こういちが入ってきたのを気にすることもなく、振り返ることもなかった。年齢的には三十歳ちょっとくらいだろうか。カジュアルな服装は、サラリーマンとは思えなかった。
ママさんがその人のことを紹介してくれた。
「この人は、商店街の中にあるブティックの店長で、山田さん」
と言われて、
「よろしくお願いします」
と紹介されたことで、こういちも挨拶をした。
「山田さん、こちらはランチタイムでいつも来てくださっている橋爪さん、この近くの事務所に勤務されているサラリーマンさんです」
と、こういちのことも紹介してくれたので、山田さんは
「どうも」
と、簡潔に挨拶してくれた。
人見知りするタイプの人なのか、一人で本を読んでいる時点で、内に籠るタイプではないかと思えた。しかし、それは最初だけで、慣れてくると、饒舌になってきたことで、こういちも山田さんに関心を持ったのだ。
山田さんが最初ぎこちなかったのは、サラリーマンというものに対して違和感があったからだ。
山田さんのブティックは、元々親が洋服屋を営んでいたことから受け継いだ店で、学生時代から将来は店の主人だと思って、それだけの勉強しかしてこなかったことで、違和感があったのだ。
「僕は、一度ランチタイムに来たことがあったんだけど、もう二度ときたくないと思ったよ」
「どうしてですか?」
「まず、話し声がうるさかった。皆自分たちの話を勝手に繰り広げるので、いろいろな会話が交錯していて、何を言っているか分からないところが、耳障りだよね。しかも、まわりの声に負けないようにしないといけないと思うのか、どんどん声が大きくなるような気がする。これには静かな雰囲気が好きな人間には、煩わしい他にはないよね」
「なるほど、確かにそうですよね。サラリーマンは仕事の話以外にも会社を離れると、愚痴をこぼす人もいるので、会話が聞こえてくると、聞きたくないと思うこともあったりします。そんな時は、その話だけ聞こえないようになれればいいって思うこともありましたよ」
「だったら、最初からうるさいのを避ければいいんですよね」
「僕の場合は、会社の人と一緒に食事に来るということはないので、ランチタイムでも、カウンターの中の女の子と話をするくらいですね。でも確かにうるさい連中もいるけど、一人で来ている人は雑誌や新聞を読みながら、集中している人が多いですね。たまに顔をしかめている人もいるんだけど、そんな人はきっと騒音にウンザリ来ている証拠なんでしょうね」
「橋爪さんは、静かな方が好きですか?」
「ええ、もちろん静かに越したことはないと思っています」
「じゃあ、僕と同じですね。でも、ずっと静かなところにいると、たまに気心知れた人と話してみたいと思うこともあります。橋爪さんに、僕にとっての、そんな『気心知れた人』になってくれると嬉しく思いますよ」
喫茶「イリュージョン」で一番最初に仲良くなったのが、山田さんだった。
山田さんは、毎日二回、イリュージョンに来ていると言っていた。最初はブティックの開店前の三十分くらい、その間にモーニングサービスで朝食を摂っているという。その時間帯が一番常連さんが集まる時間のようで、商店街の店主仲間が集まっているようだ情報交換する大切な時間でもあり、ママさんにとっても、気になる会話となっていた。
「昔はよかったのに」
という悲観的な表情をする人もいるのは仕方がないが、なるべく朝の時間ではそんな雰囲気を出さないようにしていた。
この頃は全盛期に比べて、少し翳りが見えてきたようだが、それでもまだまだ活気があった。
少なくとも、商店街には昼間シャッターが下りている店は、それほど多くもなかった。確かに店舗の入れ替わりが激しいところはあったが、それでもどこかが立ち退くと、すぐに他の店舗が入ってくる。街の活気という意味では、まだまだ十分だった。
ただ、それもその後の没落を見ているから、後になって思い出すからそう感じるのであって、当時の店主たちが皆抱えている言い知れぬ不安は、そう簡単に拭い去れるものではなかった。
朝のイリュージョンに立ち寄ることは、仕事の関係で無理だったが、雰囲気だけは、ママさん山田さんから教えてもらっていた。
「朝にはあまり来ない方がいいかも知れないね」
と、山田さんから聞かされた。
「どうしてですか?」
「サラリーマンがいると、お互いに変な気を遣うんだよ。たまに朝サラリーマンが来ることがあるけど、その人は二度と来ることはない。中には足を踏み入れて中を見ただけで、踵を返す人もいるくらいだ。それほど、朝のここは異様な雰囲気なのかも知れないね。俺たちは当事者なので、よくは分からないけど」
という話だった。
こういちは、小学生の頃、
――家が店だったらよかったのに――
と思ったことがあった。
小学生の頃、一番仲のよかった友達は、近所の商店街で文房具店の息子だった。
アーケードのある商店街だったが、この街の商店街とは少し趣きが違っていた。子供の頃に住んでいた街の商店街は、道も狭く、人がすれ違うのがやっとだった。
「商店街というよりも、市場という雰囲気だ」
と言えるだろう。
この街の商店街に来てビックリしたのは、通路が広いことで、朝の開店時から、昼過ぎくらいまで、出店のようにワゴンを前に出して売ったりできることだった。お弁当や惣菜も、店に入ることなく気軽に買えた。それが新鮮でありがたかったのだ。