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心理の挑戦

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 ランチタイムに来ている人はほとんどがサラリーマンである。この辺りは商店街はあるが、その奥が住宅街になっているので、なかなか一般企業の事務所があるような場所ではなかった。
 橋爪も最初ここに事務所が移転した時、
――どうしてこんなところに事務所を移すんだ?
 と思ったほどだった。
 理由としては、彼の所属する部署に必要な大型コンピューターが今までいた事務所には入り切れないということで、複数の部署で移転してきた、開発チームが最優先だったが、彼の所属する管理部も、コンピュータ関係の開発チームとは切っても切り離せない関係にあったので、その影響でこの街に移転してきたのだ。
 都心部からは電車で少し掛かるところになるので、不便にはなった。しかし、都心部の事務所だらけの場所に比べればのんびりしていて、今までのように、昼食に出るのにも、即行で行かないと、席が空いていないという憂き目に遭うことも多く、一か所がいっぱいなら、他を探すのは絶望で、そんな時はさっさとコンビニなどでパンなどを買い込み、事務所に戻って、自分の席で食べるという、寂しい食事になってしまう。
 それが嫌なので、昼休みになれば即行なのだが、うまく入れたとしても、どこか満足する気分にはなれない。どちらにしても、虚しさが募るばかりだった。
 それがサラリーマンの宿命だとすれば、何とも情けないものだ。仕事がなかなかはかどらない時などは、精神的に参ってしまうことも少なくはなかった。
 昼休みのランチタイムを毎日過ごすようになると、いつの間にか常連の仲間入りになっていた。元々の先輩は、完全に店に馴染んでいて、こういちはそれに倣っているだけだった。
――常連になったとはいえ、先輩を立てないとな――
 と感じていた。
 正直言うと、ランチはさほどおいしいと思うものでなかった。毎日日替わりなので、飽きがこない分ありがたかったが、たまには他に行ってみたいと思うこともあった。
 実際に、毎日ということはなくなり、週に二回ほどは、他の店に行くようになったが、何と言っても金額的には毎日この店に来ている方がありがたく、また毎日寄るようになった。
 店の名前は喫茶「イリュージョン」、昔ながらの純喫茶のわりに洒落た名前が気に入っていた。
 この街に事務所が移転してから二か月ほどでイリュージョンに来るようになり、すでに常連になっていた先輩に倣った形でくっついてきたこういちだったが、秋口になって異動の時期になってくると、先輩に異動の辞令が下りた。
 引っ越すほどの遠いところではないが、営業所の方で営業の欠員が出たということでの補充要因となった。元々先輩は入社当時、営業所で営業をしていた。人懐っこくて、すぐに人に馴染むところは、営業職が板についていたからなのかも知れない。そういう意味では移転してきて二か月ほどで、完全にイリュージョンの常連になっていたのが、その証拠であろう。
 異動が決まってからの先輩は、引継ぎなどに忙しい日々を送っていて、イリュージョンでは、
「異動になったんですってね。になったんですってね。大変ですね」
 と、ママさんや他の常連さんが名残惜しそうに話してくれたが、当の本人は、
「ええ、せっかく皆さんと仲良くなれたのに残念です」
 と、今まではため口だったのに、完全に恐縮している。
――営業というのは、こんな感じなんだろうか?
 こういちは、簿記の資格などは持っていて、最初から管理部のような仕事を希望していたので、営業という意識はほとんどなかった。先輩が営業職から管理部へ異動になった時は、
――営業からの異動があるということは、僕が営業に行くこともあるのかな?
 と、少し不安に思い、先輩に聞いてみたが、
「過去に営業から管理部への異動は多かったんだが、管理部から営業というのは、前例はないよ」
 と言われ、少し安心した気分になった。
「そうですか」
 とホッとしたような様子を見せると、
「君は正直だね。もっとも、そんなにすぐに考えていることを顔に出していたようでは、営業としては通用しないだろうね」
 と言われたことで、複雑な気分にさせられた。
 だが、今回の異動はかなり急だった。
「本当に人がいないということでの異動なので、他の人の都合がつくまでの補充なんだろうね。しかも、あの営業所には、以前少しだったけど、いたことがあったんだ」
「そういうことでの異動なんですね。また一緒にお仕事ができるようになれれば嬉しいです」
 と言って、先輩を送り出した。
 結局先輩は半年ほど営業所で営業をこなして、春になると新入社員の補充があり、彼を育てるために、そこから半年、ある程度のノウハウを叩きこんだ後で、やっと営業から解放されたのか、先輩はちょうど一年後に、管理部に復帰してきた。
 その間の一年間は、結構短かったような気がする。
 一緒に行っていた人がいなくなったことで、イリュージョンに行くのを躊躇ったが、他に行きたいと思うところもなく、激安ランチに惹かれていたこともあり、それまで同様、ランチに行くことに決めた。それが、常連になる第一歩だったのだが、元々常連と言われるような店を作りたいと思っていたこともあって、店から離れることはなくなった。
 今までは、
「先輩に倣って」
 という意識が強かったこともあって、自分が目立つということはなかったが、先輩が異動になったこともあって、タガが外れたような気がした。
 最初はランチタイムだけだったが、次第に仕事が終わってからの夕方に立ち寄ることも多くなった。普段のランチタイムしか知らないこういちだったが、店に入ると最初に感じたのは、
――こんなお店だったっけ?
 という思いだった。
 まず、空気が違った。
 風もないのに、空気が流れる音が聞こえた気がする。そう思うと次に感じたのが、
――こんなに広いお店だったんだ――
 という思いだった。
 静かすぎる店内には、クラシックが流れていた。
――そういえば、ランチタイムは何が流れていたっけ?
 って、思い出そうとしないと思い出せないほど、店の雰囲気が違っていた。
 ランチタイムは当時のヒット曲が流れていた。音響はなるべく静かで、人の話し声で、BGMが掻き消されているようだった。だから、何が流れていたのかというのをすぐに思い出すこともできないほどだったのは、印象に残っていなかったからだ。
 こういちの会社は、薬品の製造会社だった。全国的にはそれほど有名ではないが、地域の薬品会社としては大手だった。こういちも管理部の仕事とはいえ、薬品の知識はそこそこあった。先輩が戻ってきてから聞いた話だったが、
「ここだけの話だけどな。さすがに営業所で営業の仕事は、もう嫌だよ。特に俺の場合は、補充が来るまでの繋ぎ要因だったからな。真剣にもなれないし、薬品会社の営業は、やったことがない人には分からないところがたくさんあって、簡単なものではないんだ」
「ストレスもたまりそうですね」
「ああ、そのストレスが問題なのさ。だから、もう俺は営業はしたくないな」
 と言っていたのが印象的だった。
 こういちがイリュージョンの昼間の時間と夕方の時間帯での一番違うと感じたのは、
――夕方には、薬品の匂いがするんだ――
作品名:心理の挑戦 作家名:森本晃次