心理の挑戦
「その通りです。この話の主人公は実は奥さんなんです。ここまでは奥さんはあくまでもご主人の病気を思いやる優しい奥さんであり、不思議な男を目撃したという意味では、話の中では第三者的な人に思えますが、奥さんの企みがなければ、成立しないお話なんです」
「奥さんの企み?」
「ええ、この旦那さんには、多額の保険金が掛けられていました。さらに、この奥さんのは、少し前から不倫を重ねている男がいる。その男は今まで話の中に上がっていませんが、実は、不思議な男が言っている『お前を見た』という本当の相手は、その不倫の男だったんです」
「えっ? ということは、このお話の裏で並行して別の事件が密かに動いていたということなんですか?」
「そういうことになります。その男は奥さんも知っている相手でした。さっき奥さんがその男のことを話せない理由が三つあると言って、もう一つは、もう少ししてから話題に出てくると言ったのは、このことだったんです。その人の存在を人に話すことは、万が一にも自分の計画が露呈してしまわないという危険を感じたからだったんですね」
「そういうことだったんですね。でも、奥さんはそのことを、不倫相手に話さなかったんでしょうか?」
この質問は、典子から出たものだった。
典子の中で女としての気持ちが奥さんが何を考えているのかを想像してみたのだろう。そして感じたのが、不倫相手に話をしていたかどうか重要だと思ったことだった。
「話をしてはいないと思いますよ。元々奥さんと不倫相手は、目の前の目的は同じだったかも知れませんが、最終的な方向性は違っていたようなんです。お互いに不倫を重ねながら、時間が経つうちに、最初はマンネリ化していたようなんですが、そのうちにマンネリ化が、相手への猜疑心に変わっていったようなんですね。その猜疑心というのは、嫉妬ということではありません。自分の目的達成に対して、本当に相手がこの人でいいのかという思いですね」
「それは恐ろしい。僕は最後の結末を今想像してしまって、ゾッとしました」
と、こういちが言うと、
「どういう結末ですか?」
山田さんはニヤリとしながら聞き返したので、山田さんには、こういちが何を考えているのか分かったようだ。
というよりも、山田さんも同じ結末を思い浮かべていたのかも知れない。
こういちはすべてを相手が分かっているのではと思いながら、敢えて焦らすかのように答えた。
「二人が殺し合うのではないかと思ったんですよ。ただ、それはあくまでも最後の手段であり、やってしまうと、最初からの計画が根底から覆ることになりますからね」
二人の話に、典子はついていけているのかどうか分からなかったが、典子も話に口を挟んだ。
「根底から覆るというのは、どういうことなんですか?」
という典子の話に、山田さんが答えた。
「これは、奥さんと不倫相手の間で綿密に練られた計画殺人だったんですよ」
「殺害相手というのは、当然旦那さんですよね?」
「ええ、普通に殺してしまっては、簡単に捜査が及んでしまって、逮捕でもされたら、何もかも台無しですからね。時間を掛けて徐々に毒を盛ることで弱ってくる旦那を、献身的に介抱する奥さんという構図を作り上げることも目的だったんですね。まわりから同情を得ることで、自分はすべての蚊帳の外だということを思わせ、殺害の事実を煙に巻いてしまおうという計画だったんですよ」
「でも、医者が見ればすぐに分かるんじゃないんですか?」
「ええ、そこも買収済みの相手を確保してからの計画ですね。お金だけでは安心できないので、奥さんが色仕掛けで男を騙したというところですね」
「えっ、でも、不倫相手が嫉妬しないんですか?」
典子が反応した。
それを聞いた山田さんは、ニヤリと笑って、
「だから最初から言ったでしょう。二人の目の前の目的は同じでも、最終的な方向性は違っているってね。だから二人は不倫の関係ではあるんだけど、それは目的のための関係の延長という程度のもので、嫉妬するほど男女の関係が深いわけではないですね。むしろ、不倫相手の方とすれば、医者に対して奥さんが心変わりしてくれた方が、最終的に自分が蚊帳の外になれれば好都合とまで思っていたのかも知れませんね」
さらに典子が答えた。
「そんな……。それじゃあ、旦那さんがあまりにも可哀そうすぎる」
山田さんは、またニヤリと笑うと、
「そうでもないんだよ。奥さんが旦那を殺そうと考えた最初の動機は、旦那が作った借金だったんだ。それも、女遊びにギャンブルと、結構荒れた生活をしていたようだ。元々旦那というのは、中小企業の社長をしていたんだけど、どこかで歯車が狂ったんだろうね」
「そうだったんですね」
「旦那というのは、親の会社を受け継いだ二代目のようで、子供の頃から社長になるということしか道はないように育てられた。だから、少々の贅沢は許されると思っていたので、ちやほやされたりしたら、歯止めも利かなかったんだろうね。ギャンブルにしても、金銭感覚がマヒした状態でのめり込んでしまえば、結果は見えているからね」
「じゃあ、奥さんも被害者だったのかな?」
「被害者というのはどうかな? 元々結婚したのも、玉の輿狙いだったからね。学生時代には、それなりにモテていて、玉の輿にも載りやすかったんだ。奥さんの方も、ちやほやされることで、普通の感覚がマヒしていたんだろうね。特に恋愛感覚は完全にその時にマヒしていたんだと思う。だから、不倫相手を本気で好きになることもなかったんだよ」
それを聞いた典子は、
「そんな女性に本気で誰かを好きになんかなれるわけはないわ。そんな権利もないと思う」
と言った。
「典子さんの考え方が、普通の女性の考え方なんでしょうね。こういう話をしていると、しているだけで、感覚がマヒしてきて、感性が歪んでくるんじゃないかって思うんですよ」
と、こういちは言った。
「そこは二人の言う通りだと思います。ただ、このお話で誰が正しくて誰が悪いということを論じるのは、ナンセンスなんじゃないかって思います。最初からそんな考えを持たずに僕の方も話しているわけなので、お二人も、そういう感覚を持たないようにしてもらいたいと思います」
「ところで、『お前を見た』と言った、その謎の男というのは、誰だったんでしょうね?」
「それは、たぶん二人が買収した医者だったんでしょうね。お金に目がくらんだのか、奥さんの身体に溺れてしまったのか、医者は完全に常軌を逸していたんでしょうね。ひょっとすると、かなり真面目な性格だったのかも知れない。いろいろなジレンマが彼の中にあって、ジレンマと戦いながら、理性を保とうとしたとすれば、どこかで何かがプツンと切れてしまったとも考えられますね」
「じゃあ、『お前を見た』というのは何だったんでしょうね?」
「これは僕の想像でしかないんだけど、自分を誘惑した奥さんは、不倫相手を自分だけだと思い込んでいたのに、何かのきっかけで、奥さんには他に男がいることに気が付いた。それが最初から計画の立案者だということを知らない医者は、その男に対して嫉妬心が浮かんできたとしても、無理もないことだよね」
「何となく話が繋がってきたような気がする」