心理の挑戦
「じゃあ、僕じゃなかった可能性もないわけではないんですね?」
「そう言われてみれば、そういうことだね」
それを聞くと、こういちは考え込んでしまった。
「どうしたんだい? どうして自分なのかということにそんなにこだわるんだい?」
と山田さんに言われて、話そうか迷っていたが、
「考えていて、迷っているのなら、話してみた方がいいかも知れませんよ」
と、カウンターの奥から、今まで黙っていた典子が口を開いた。
最初におどけていた様子がまったくウソのように、真剣そのものの表情をしていた。
「実は、僕も似たような経験を最近しているんです。ただ、それは僕が山田さんの立場に立っていたわけではなく、相手の男の立場だったんですよ」
というと、今まで静かだった山田さんが声を上ずらせて、
「何だって!」
と、本当なら、もう少し大きな声を発したいと思ったのかも知れないが、思ったよりも声が小さかったのに、こういちは気づいた。
それが却って気持ち悪く感じさせ、これから話すことが重大なことになるのではないかと感じたのだ。
「あれは、僕が出張に行っている時だったんですが、出張先の駅の喫茶店で支店長と待ち合わせた時だったんですが、電車は定刻に到着したんですが、支店長は業務の影響で出発が遅れたようで、少し駅で待っていたんです」
「迎えに来てもらう予定だったわけですね」
「ええ、その時支店長を待つのに、少しお土産コーナーなどを見て回っていたんですが、急に誰かの視線を感じたんですよ。そして、気になって振り向くと、そこには最初誰もいませんでした」
「錯覚だったんですか?」
「最初はそう思ったんですが、もう一度同じ方向から視線を感じたので、今度はそっちを見ると、ひとりの男性がこの僕を見ているんです。それも、まるで幽霊を見ているようなそんな感じだったんです。だから、最初誰か似た人を見つけたので、声を掛けるつもりで近づいたけど、実は違ったというのかなと思ったんですが、そのわりに、顔色があまりにも冴えない。真っ青だったんですね」
「僕が見た真っ青と同じ感じなんだろうか?」
「それは分かりませんが、その時僕は、もう一つの仮説を立ててみたんです」
「というのは?」
「その人が見たのは、確かに知り合いだったんだけど、本当であれば、そこにいるはずのない人の顔を見てしまい、ビックリしたのかも知れないと思ったんですよ。ひょっとすると、もうこの世にはいない人に似ていたのかも知れないと思うと、こっちも気持ち悪くなりました」
「じゃあ、橋爪君もゾッとしたということは、顔色が悪かったのかも知れないね?」
「きっとそうだと思います。そういう意味では僕のその時の顔、今の山田さんなら想像できるんじゃないかと思いますよ」
「いや、きっと無理だろうね。何と言っても、今話をしているのが、その当事者である橋爪君なんだから、今その顔を見ながら思い出すことができるほどの表情ではなかったんだよ。本当にこの世のものではないという表現がピッタリだね」
「でも、もし時期が違っていたとしても、主人公と見られていた人のどちらも自分だと思うと気持ち悪いですね。世の中って、知らない次元があって、すべてはどこかで繋がっているのかも知れないですね」
少し漠然とした言い方だったので、橋爪としては核心を突いた話だと思ったが、二人は敢えてそのことに触れることはなかった。
「それにしても、あまり怖い話しないでくださいよ。私、これでも怖がりなんですから」
と典子は言って笑っていたが、その声はひきつっていた。
こういちも山田さんも、しばらく口を開くのが怖いのか、典子の言葉の後、何も言わなくなった。
山田さんは週刊誌を、こういちは、週刊マンガをブックラックから取ってきて、各々読み始めた。
三人の間に、無言で不穏な空気が流れていたようだ。
その日は、それで話は終わったが、不思議なことにこの話も、少しの間頭の中で気になっていたが、ある日から急に意識しなくなった。
ただ、今回は二か月以上というほどの長さではなく、一か月ほどのことだった。
頭の中で、
――最近は、どうしてこんなに気になる話が相次いで、忘れられない時期が一定期間続いて、なぜかある日を境に忘れてしまうということが続くんだろうか?
と思うようになっていた。
そんなことを考えるようになったのは、典子が似たような話を始めたからだった。
「私、この間学校で、先輩を見たのよ。それも卒業した先輩なんだけどね」
「部活の後輩の指導でもしに来たんじゃないのかい?」
「そういうわけではないの。だって、その先輩、制服を着ていたのよ。しかも、手には当時と同じ学生カバンを持っていたの」
「それはおかしいよね。でも、学校でそんなイベントか何かがあったんじゃないの?」
「そんなことはないんですよ。だって、その先輩は進学せずに就職したんです。それも、勤務地は家から通えないから、今は一人暮らしをしているはずなんです」
「じゃあ、仕事を辞めて地元に戻ってきたのかも知れないよ」
「そんなことはないんですよ。先輩、高校三年生の時、親の転勤で家族は別の土地に住んでいるので、戻ってくるとすればここではなく、家族の住んでいる街のはずなんですよ」
「話だけを聞いていると、いかにも典子ちゃんの学校で見かけるはずのない条件が揃いすぎているくらい揃っているのに、見てしまったということなんだね?」
「ええ、どこをつついても、考えにくい条件ばかりが揃っているんですよ。本当に揃いすぎるくらいにね」
「で、その先輩に声を掛けたのかい?」
「声を掛けようと思って追いかけたんですが、角を曲がると煙のように消えていたんですよ。おかしな話ですよね」
「ん? 待てよ。こんな話、少し前にもここでしたことがなかったかな?」
こういちが言い出した。
すると、それを黙って聞いていた山田さんも、
「うん、確かにそうだ。確か誰かに似た人を見たという話題だったような気がする」
「元々は、山田さんからの話だったような気がするんですが、なぜか、詳細までは思い出せないんですよ」
「橋爪君もそうなのかい? 実は僕もそうなんだ。似たような話があったような気がしていたんだけど、思い出せない。ただキーワードは、似ている人を見たということだったような気がする。で、しかも、しばらくの間気になっていたはずなんだけど、それを過ぎるとバッタリ記憶から消えてしまったかのようなんだ。一つのことを気にしすぎて、結論が出てこないと、そのことが記憶から欠落してしまうようなそんな作用が人間の中にあるのかも知れないね」
「だけど、もしそうだとしても、その話をした当事者が二人とも同じ状況だったというのは、偶然にしてはうまくいきすぎていませんか? 僕はそちらの方が気持ち悪い気がするんですよ」