心理の挑戦
「それが、不思議なんだけど、便せんに一言大きな文字で、『お前を見た』と書かれていたというの。遺書としてはあまりにも異様だったので、警察も必死で父の遺体を探したんでしょうね。でも、現場の状況や、それからも、並行して捜索願いのままいろいろ調べてもらったんだけど、生存も確認できなかったの」
「それは何とも言えないね」
「ええ、それにもう一つ刑事さんが不思議に思ったのが、遺書の中に一緒に置かれていたのが、手鏡だったらしいの。それは男性が身だしなみ用に使う手鏡で、小さなものだったらしいんだけど、ここまで来ると、以前父が話していたさっきした話が、気になってくるのも無理もないことでしょう?」
「そうだね」
こういちは、背筋がゾッとしたように思い、急に下半身が催してきたのを感じた。
「ごめん、ちょっとトイレ」
そう言って、トイレに向かった。
そこに鏡があったので、反射的に鏡を見ないようにしたのは、ここ数日の話の一つのカギとして鏡があったからだ。頭を下げたまま用を足すと、これも鏡を見ないように手を洗って、そそくさと自分の席に戻ってきた。
典子がおしぼりを手に持って微笑んでいる。
――今まであんな恐ろしい話をした同一人物にはとても思えない――
と感じ、
「ありがとう」
と言って、おしぼりを受け取ると、
「いいえ、何か私、少しぼっとしていて、さっきまでどんな話をしていたのか、どうも途中までしか覚えていないのよ」
と言った。
「途中までとは?」
「『お前を見た』というのが、奥さんの口癖だったというのを、お父さんが聞いたというところまでなの」
「じゃあ、鏡が共通点という話のところまでだね。じゃあ、オカルトはそこまでで、そこからミステリーのようなお話をするというのは?」
「えっと、漠然としては意識にあるような気がするんだけど、まるで夢の中での意識のようで、私の口から出てきた言葉のような気がしないんですよ。どちらかというと、私も聞き手だったような感じですね。だから自分でもよく分かっていないような気がするんです」
どうやら典子は、最初の導入部くらいしか覚えていないようだ。
だが、典子が、
「自分も聞き手だったような気がする」
と言って、まるで夢の中にいたと話しているのを聞くと、それ以降自分が聞いた話も、信憑性に欠けるような気がした。その話は典子から聞いたわけではなく、いずれ、他の人から聞くことになり、その時にデジャブを感じることになるということを、その時のこういちは、知る由もなかった。
多層性と多重性
「お前を見た」
と言われ、死んでいった人の話は、少しの間、こういちの頭の中を支配していた。
しかし、ある日と境にこういちの頭からその話がまったく消えてしまったのは、本人の意識のない中で何かのきっかけがあったのかも知れない。
「人の噂も七十五日」
と言われるが、まさにその通り、ちょうど二か月ちょっとが経過してからのことだった。
逆に二か月以上も気になっていたという方が異常なのかも知れない。普通であれば、一週間もしないうちに記憶の奥に封印されてしまうだろう。ただ、気になっていると言っても最後の方は、ロウソクの炎が消えるかのように、風が吹けばあっという間に消えてしまいそうで、風前の灯とはまさにこのことだった。
二か月が経ってしばらくすると、冬も本格的になっていた。この間まで明るかったと思っていた時間、あっという間に真っ暗になっていて、定時に会社を出る頃には、完全にヨロのとばりが下りていた。
いつものように喫茶「イリュージョン」に行くと、いつものようにカウンターの中には典子がいて、カウンターには山田さんがいた。その日の山田さんはいつになく饒舌で、典子にいろいろ話をしているようだった。
「ねぇ、今山田さんから話を聞いていたんだけど、橋爪さんに似た人をこの間見たんですって」
と言って、典子は山田さんを見た。
その様子を見ながら、山田さんはちょっと困ったような顔をしたが、こういちの方を振り返り、
「ええ、そうなんですよ」
と言って、再度典子を見た。
典子の方は、言ってはいけないことを言ってしまったと思ったのか、恐縮した顔になったが、すぐに気を取り直して、洗い物をしていた。
「実はそうなんだよ。遠くもなく近くもない中途半端な距離で見たので、君ではないということは分かったんだけど、どこかが違うと感じたのは、ある角度になった時、君なら絶対にあんな表情をしないという顔をしたんだ。一瞬のことだったんだろうけど、僕には結構長い間その表情を見ていたような気がしたんだ」
「それはどこで見たんですか?」
「あれは、S市の公民館だったかな? 最初に横顔が見えたんだけど、その時は君だと思って疑いもしなかったよ。少し近づいてから、その人が顔を背けた時、その瞬間に見た表情が君ではないと僕に教えてくれた。そうでなければ、声を掛けていたかも知れない。でも、その時にその人は、急に僕の顔を見たんだ。僕が最初に見た時に気づいたわけではなく、君ではないということを確信した瞬間、その人は僕に気がついたようだった。これも面白いよね」
「ええ、確かにそうですね。僕はS市の公民館に行ったことはないので、間違いなく別人だったんでしょう。でも、その人は山田さんに気づいてそれからどうしたんですか?」
「彼は、それから何もしませんでした。すぐに顔を反らして、そのまま別の方向に向かって歩き始めましたからね。でも、不思議なことに、その人が近くを歩いているのに、誰も彼を意識していないんです。中には彼が急に踵を返すものだから、もう少しで衝突しそうになった人もいたんですが、相手もその人も、何事もなかったかのように、すれ違ったんですよ。もう少しで肌が触れ合うくらいにですね」
「確かに、存在感が薄い人はいると思いますが、そこまでというのはありえないような気がしますね」
「まさしくその通り。僕も気になって、彼の後ろを追いかけたんですが、裏口に向かう狭い通路を抜けると、忽然と姿が見えなくなったんです。気持ち悪いと思いましたが、自分の用事を済ませて帰る頃には、そんなことがあったなど、すっかり忘れていましたね」
「その人の表情って、どんな感じだったんだろう? 特に自分にはできないような表情というのは」
「それは今思うと、もし似ている人が他の人であっても、その表情は、その人にはできないものだって思うでしょうね。言い方を変えれば、『その表情は、この世のものではないという雰囲気』でした」
「具体的には?」
「う〜ん、そうですね。顔色が真っ青で、死人のような顔色だったと言ってもいいんじゃないかな? だから誰にもできそうにない表情に思えたんです」
「もし、山田さんが見たのが幻だったとすれば、僕に似た人だったということは、その時僕のことを意識していたということになると思うんですが、何か僕に対して意識がありましたか?」
「別に、橋爪君を意識したという気持ちはないんだ。誰かに似た人だという思いが先にあって、誰に似ているのかを考えた時、橋爪君だったというのが、その時の意識の流れだったような気がする」