未来の花
離婚の理由を尋ねるアディに、カジェリンは苦い笑みを返した。そして努めて何でもない口調で打ち明ける。
「私が、子供をわざと堕ろしたから」
アディの目が、再び驚愕で大きく開かれた。
もしかしたら出来ない体質なのかも知れない、と思い始めていた頃に授かった命だった。周りは皆喜んだし、カジェリン自身も嬉しく思ったのに——それ以上に、恐れを強く感じてしまった。自分の一族に付いて離れない弊害を思い、それが我が子に現れることを危惧した。
……もし、生まれる子供が姉のような能力を持っていたら。
姉のように苦しんだ挙句、解放されるために命を絶つことを選んでしまったら。
そんな、悲しい選択を目の当たりにするのは、二度と御免だ。
もう一人たりとも、姉や自分と同じ思いをする人間を増やしたくはなかった。能力の遺伝が確定ではないにせよ、遺伝しない可能性に頼って楽観視することはどうしても出来なかった。
だから、妊娠五ヶ月になる少し前、堕胎のための薬を密かに作って飲んだ。誰もそのことは知らないはずで、だから流産も体調の急変で済まされるはずだった。……薬草を摘む姿を、近所の住人に見られていたことは後で聞いて知った。
事実を知らされた夫や彼の身内は、当然ながら理由を問い詰めた。だがカジェリンは理由はおろか、弁解も一切口にしなかった。どう話そうと彼らは納得しないだろうし、自分のしたことが許されるとも思わなかったから。そして実際、その通りになった。
動ける身体になってすぐ、離縁されたカジェリンは身ひとつで婚家を出た。すでに数少なかった親族を訪ねた際、遠縁に当たる亡き老薬師を知り、この診療所で働くことを決めたのだった。
たった十四で自ら命を絶った姉。理由はどうあれ産むことを拒否し、天に還してしまった我が子——二人のことを思うと、視界に入る全ての人の命を、出来うる限り守らなければいけないという気が沸き起こる。可能な最大限の範囲で命を守り続けることが、カジェリンが生きていく唯一の理由であり、課せられた義務なのだとも思っている。
語り終えた後、かなり長い間、沈黙が室内を満たしていた。水瓶に突っ込んだカジェリンの右腕、服の袖が生乾きの状態になるほどの時間が経ってから、
「……悪かった」
不意に、アディがそう口にした。
「え?」
「ここに連れてこられた夜——事情が分からなかったとはいえ失礼な態度だったよな、俺。それに、あんたがそんな思いで薬師やってるなんて知らなかったから……俺のことムカついただろ」
抑えた口調ながら、本気で申し訳ないと思っているらしいのは伝わってきた。カジェリンは微笑む。
「まあ正直言えば、多少はね。でもあれぐらいは日常茶飯事だから気にはしてないわ。もっと手のかかる患者さんはいくらでもいるもの……重病でも診てもらいたがらない人とか、長患いでどうせ先は無いから楽に逝ける薬を寄越せなんて言う人も中には」
しまった、と思った時にはもう遅く、再び脳裏に姉の姿が蘇った。繊細ゆえに優しくて、少しばかり不器用なところもあった姉……命を絶つ時、最期に彼女は何を思っただろう。苦痛から解放される喜びか、家族に対する何らかの感情か。
突然に目頭が熱くなり、頬を涙がつたった。自分も驚いたが、アディの驚きはそれ以上だったろう。
顔を見なくても、息を呑む気配だけで充分に分かった。
「……いやだ、どうして」
気まずい思いを感じながら、慌てて頬を拭う。
しかし涙は容易には止まってくれなかった。考えてみれば久しく泣いてなどいない——子供を堕ろすと決めた七年近く前のあの日以来。
声まで震えそうになってきたので、諦めて涙が流れるままに任せる。
次の瞬間、視界にふっと影が落ちた。アディが身を乗り出してきたのだと分かると同時に、カジェリンは抱きしめられていた。お互い立て膝の状態でも身長の差は歴然としていて、カジェリンの額が彼の鎖骨の下あたりに来るという具合である。
アディの思いがけない行動に動けずにいるうち、背中に回された手がぎこちなく、さするように上下し始める。忘れていた抱擁の温もりが心地よく身体に染みてきたその時、カジェリンの脳裏に閃くものがあった——ほんのわずかな間、それはこの上なく鮮やかに照らし出され、数瞬後にはかき消える。
カジェリンの意識が現実に戻った時には、驚くほど互いの顔と顔が近づいていた。涙を拭うように唇を寄せてきていたアディから、さっと身体を離す。
「……あのね、そういう優しさは、本当に好きな女にだけ使うようにしときなさい」
こちらが身を引いたことに少なからず傷ついた、
という表情をしたアディに、カジェリンはきっぱりと忠告を与えた。彼の抱擁に一瞬身を委ねかけた自分に少しうろたえながら。
まだ十五であるにもかかわらず、アディの男ぶりは悪くない。いわゆる美形ではないが顔立ちは整っている方だし、今は一見細身の体格にも、鍛え続けるうちに長身に相応しい幅が自然と付いていくだろう。そんな彼が、先ほどのような行動を無闇に取るのは良くないと思った。する本人にとっても、当然される相手にとっても。
「……そんな女になんて、会えやしないよ」
沈んだ声で言うアディの心境は推し量れたが、だからこそ、閃いたものを伝えておきたかった、
「そうね、難しいけど……でも、必ずいつか会えるわよ。そういう相手に」
「——『必ず』?」
やけに断定的な言い方を不可解に思ったらしく、アディは訝しげに聞き返す。
カジェリンは確信をこめて強く頷いた。
「そう。私には分かるの」
翌日、アディを迎えに診療所へ来たのは、ボロム自身だった。仕事が早く片付いて、帰る途中に寄ったという話である。
治療費のことではしばらく揉めた。押し問答の結果、返すつもりだった金額のうち半分をカジェリンが受け取り、残りは持ち帰ってもらうことでやっと話がついた。ボロムに言わせれば、予想よりアディの面倒を長く見てもらったのだから全額でもまだ足りないぐらいだそうだが、カジェリンとしては予想外に作業を手伝ってもらったこともあり、全く気にはしていなかった。
アディの、カジェリンに対する態度を目にして、ボロムは感じ取るものがあったらしかった。何も聞かれなかったが、アディが自分の秘密をカジェリンに話したことは察したようである。最初の夜の苦々しい表情とは打って変わって、安堵の色を浮かべた穏やかな目でアディを見ていた。
いかにも、父親が子供を見つめるような目だなと思っていると、ボロムがこちらに向き直った。
「世話になったな。それじゃ」
「いいえ。道中気をつけて。——まだあまり激しく動かさない方がいいわよ。しばらくは無理しないようにね」
後半はアディに向けて言うと、「分かってる」と素直に返事をした。そして、
「……また、ここに来てもいいかな」
神妙な顔で言ったので、カジェリンは微笑む。
「もちろん。けど次は、喧嘩も怪我もしてない時にいらっしゃいね」
付け加えた言葉に、ボロムが豪快な笑い声を上げる。アディは彼の横で長身を小さく縮めながらも、再び素直な様子を見せて、はっきり頷いた。