未来の花
翌日の朝には、アディの熱は完全に引いた。さすがに職業柄鍛えているだけのことはあると言うべきか。長身だから細く見えるが、実際には筋肉が結構しっかりと付いているのは、毛布の上から触れただけでも分かる。
念のためさらに半日休ませると、三日目には発熱の名残もすっかり消えたようで、足取りにも危なげなところは全く無くなっていた。
後の問題は腕の傷ぐらいだが、左腕は極力動かすなと口を酸っぱくして言い続けた甲斐あって、傷口はかなり塞がってきている。筋組織や神経への影響も無さそうなので、あと何日かすれば、徐々にではあるが元通り動かせるようになっていくだろう。
熱が下がり頭がすっきりした途端、アディは暇を持て余し始めたらしい。初日に提案した部屋の整理をしようと動き回りかけるので、せっかく塞がった傷がまた開いてもいいのかとカジェリンは脅した。
しかし一日中何もせずに部屋にいるのは息が詰まる、と訴えられたので、考えた結果、片手だけでも何とかできてさほど動き回らずに済むこと——薬湯を煎じる鍋を時間を計りつつ見張る作業を頼んだ。ごく簡単なものは実際に製法を教え作らせもした。
こちらの説明は全て覚えていて絶対に間違わず、帰らせる必要が無ければ助手にしたいと思うほど、アディは完璧に作業をこなした。
順調に回復している証拠でもあり、喜ばしいことだが……復調に従い、彼は物理的な距離を置くようになった。常にカジェリンから数歩離れ、はずみで手や身体が触れたりしない間隔を保っている。傷の手当の際には大人しく近寄らせているが、わずかに緊張している様子が毎回見受けられる。
精神的にはむしろ、こちらに気を許しつつあるようにカジェリンは感じている。大抵のことには素直に答えるので、彼が、幼い頃に両親と別れた後でボロムに拾われ、傭兵見習いとしての訓練を受けるに至ったことを聞いた。ボロムに父親に対するような思いを抱いているのも言葉の端々から分かった。
但し、話したがらない話題もあった——生き別れたという両親のことや、ボロムに拾われる前のことなど。未だに、喧嘩の本当の訳を言わないのと多分同じ理由だろうと、カジェリンは思っていた。
「ただいま。具合はどうかしら」
アディが来てから五日目の夜、往診から戻ってきたところである。時間をかけて煮詰める必要のある薬湯を頼んでいて、今は冷ましている頃合いのはずだった。その通りになっていたので、カジェリンは出来具合を確認する。別の鍋で湯を沸かしてくれてもいたので、明日の朝早くにするつもりだった作業を、繰り上げて今夜中にやっておこうかと考えた。
「せっかくだから、道具の消毒も一度にしてしまおうかしらね。もう一つ鍋を用意して——」
カジェリンが言うと同時に、アディが鍋を保管している棚の方へと身体を捻らせた。その時、身体のどこかが何かに当たったはずみなのか、火にかけた鍋が揺れて傾いた。
煮えたぎった湯がアディの左腕目がけて飛び散るのを見た瞬間、カジェリンは反射的に動いていた。
上半身で彼の腕を抱え込む態勢になり、湯はカジェリンの右の二の腕に降りかかった。熱さに思わず悲鳴を上げると、
「カジェリン!?」
アディが、彼らしく無いほどに取り乱した声で叫んだ。
有無を言わさずカジェリンを、水を汲み置きしてある大瓶の前まで文字通り引きずっていき、瓶の中に直接腕を突っ込ませた。背後からアディは、右腕だけなのに相当な力でカジェリンを押さえ付けていて、動くに動けない。仕方なく、大瓶の前に膝をついた格好で、水が腕を冷やすのに任せていた。
その姿勢だとカジェリンの顔は、瓶の口とほぼ同じ高さに来る。目の前の揺れる水面を見つめているうちに、思い出されることがあった。
あの時は、お湯をかぶって火傷したのは、私ではなかった——
考えているうちに、普段は隅に追いやっている記憶までが前へと引き出されてくる。……いつの間にか、その記憶に思考が浸りきり、半ば放心状態になっていた。
「……ねえさん」
声に出さずに呟いたその言葉を、実際に口にしたのは自分ではなかった。はっと我に返る。
振り向くと、アディも心ここにあらずといった目をしていた。カジェリンが自分を見ているのに気づいてようやく焦点が合い、次いでカジェリンの無表情を目にして戸惑いの色を浮かべた。
「今、何て言ったの?」
「————あ、…………」
「『姉さん』て言ったわよね」
さらに問いかけると、アディは何とも言い難い顔をした。絶対に知られたくないことを自ら暴露してしまった時の、バツの悪さと後悔と、相手の反応を窺う不安などが全部入り交じった表情。
全く言い訳を思いつけずにいる様子のアディに、カジェリンは無表情から一転して、相手を安心させるための微笑を作った。
「知ってたわよ」
「…………え」
「正確には、ボロムさんにほのめかされたんだけど——あなたが特殊だって。つまり、そういうことなんでしょう?」
答えないアディに対し、カジェリンはさらに、
「私の記憶が視えたのよね」
はっきりと口にした。その瞬間、アディは胸に刃物を突き立てられたような表情をしたが、それでも辛うじて頷くことで、カジェリンの言葉を認めた。
百五十年ほど前まで、アレイザスと隣国コルゼラウデは、コルザという一つの大国だった。
政教一致で、王族と同様に聖職者が崇められていた国であったが、それに不満を抱く王族の一派が叛乱を起こし、数年続いた内戦の結果、コルザは分裂した。叛乱を起こした新王族側が最終的勝利を収めたため、国土の多くは彼らの統治下に入り、六分の一にも満たない残りが旧王族の領土となった。前者が現在のアレイザス、後者がコルゼラウデである。