未来の花
「そうよ。忘れてるかと思ったけどちゃんと聞いてたのね。できれば、あんたじゃなくて名前で呼んでもらえるともっと有難いけど」
にやにやと笑ってしまいそうなのを堪えながら言うと、アディは再びそっぽを向いてしまった。その顔が赤くなっているのは熱のせいだけではないだろうと思ったが、追究はせずにその場を離れた。
野菜と少しの干し肉を柔らかめに煮込んだスープを、二人分の器に盛ってからちぎったパンを浸す。カジェリン自身は早く食べるためにそうしているのだが、病人でも喉を通りやすいので、泊まりの患者がいる時にはスープを多めに作る。今回はたまたま昨日の夜中に作ったばかりだったので、量にはまだ余裕があった。
器を手に診療部屋へ戻ると、アディが衝立の後ろから姿を見せるところだった。
「あらまあ。一人で起きられたの」
少なからず驚きを表すと、アディは心外そうに、
「……子供みたいに言わないでくれよ」
呟くようにぼそりと言った。多少ふらついてはいるものの、衝立や机などにつかまることなく、自分の足で歩いている。
そうやって立っていると、彼がいかに背が高いかがよく分かった。カジェリンにとっては文字通り見上げるほどで、おそらく頭一つ分以上は差がある。
その長身と、年のわりに大人びてはいるがまだどこか不安定な雰囲気、そして幼さの残る顔つきと、若干ふくれたような口調。それらが奇妙に調和しているようなしていないような、不思議な印象を感じて、密かに興味を覚えた。
実際には、「適当に座って。食べられるだけでいいから食べなさい」と促しただけであるが。
カジェリンが器を机に置いても、アディは困惑した表情で、きょろきょろと自分の周りを見回している。仕方ないので、手近な椅子から積み上げていた書物をどけて、近くまで持っていってやる。アディがそれを引き寄せて座るのを見てから、カジェリンも席に着いた。
互いにしばらく、食べることに没頭する。空腹は少しと言っていたアディだが、食物を胃に入れたことで食欲が刺激されたようで、器の中味の減り方はカジェリンよりも速いぐらいだった。
その様子に安堵と満足を感じている間にアディは食事を終え、息をついた。そして再び、診療部屋をぐるりと見回す。
予測はついたが、カジェリンは何か気になるのかと聞いてみた。言おうかどうしようかと迷うような少々長い沈黙の後、アディは口を開く。
「ここ、本当に診療所なのか? それにしちゃ全然片付いてないよな」
予想はしていても実際に、おまけにそう率直に言われるとほんの少しだが傷つく。しかし顔には出さなかった。
「そう? これでも片付けてるつもりなんだけど」
室内及び自分自身の清潔さを保つことには、普段からかなりの神経を使っている。だが反面、整理整頓という観点から見ると、我ながら才能に恵まれていないと思わざるを得ない。なんとか診療のための場所——人間が二・三人座れる程度の椅子と寝台の空間は確保しているが、そこ以外はほぼ、至る所に書物だの薬草を入れた袋だの、その他治療や薬の調合に必要な器具などが入り交じった状態で置かれたり積まれたりしている。カジェリン自身はどこに何があるか一応の把握はしているのだが、人が見れば無秩序に置いていると感じても仕方がない状態だというのも自覚していた。
……とは思うものの、実際に整頓するところまではいつも行き着かない。そのための暇がほとんど無いのは確かだが、根本的に苦手だから、他人が見てきちんとした状態まで整えるには相当な時間が必要であるのが確実で、ゆえに結局は手をつける気になれないのだった。
「なかなか、時間が無いのよね。診療と往診以外にもすることはあるし、他に人手もないし」
そう続けて言うと、アディはまた黙った。食べる手を休めてふと顔を上げると、じっとこちらを見ている。その時カジェリンはようやく、彼の目が初めて見るような、淡く透明な緑色であることに気づいた。白に近いほどの金髪もめったに見かけないが、目の色はそれ以上に珍しいと思った。
「俺が、手伝おうか?」
何を言われたのか一瞬分からず、きょとんとしてしまった。理解してからはまず意外に思った。そんなことを彼が提案するとは思わなかったからだ。
「手伝うって、部屋の片付けを? あのね、そんなこと気にしなくていいのよ。あなたは患者なんだから……散らかってるのが我慢できない性分なのかも知れないけど」
それもあるけど、と再び率直に言ってから、
「一応、何日か世話になるわけだし——どうせすることもないし」
ぼそぼそと呟くようにアディは付け加えた。つまり、治療の礼の意味も含めて申し出たらしい。見た目と喋り方の愛想無さとは裏腹に、意外に殊勝な一面もあるようだった。カジェリンは微笑んだ。
「親切にありがとう。でもそれを考えるのは、もう少し回復してからの話ね。ーーところで」
何気ない口調で話題を変えたが、内心では意識もより研ぎ澄ます方向へと切り替えた。
「昨夜はどうして喧嘩になったの? ボロムさんの話では、タチの良くない相手だったみたいだけど」
「…………」
「もっとも、あなたの辛抱も足りなかったって言ってたけどね。何がそんなに気に障ったの?」
アディはなかなか答えようとはしなかった。何度か目を上げてこちらを見はしたが、口を開くまでには至らない。
ずいぶんと待たされた結果、やっと聞けたのは、「髪の色をからかわれた」という一言だった。光の加減では白髪に見えなくもない薄さだから、珍しさで軽口を叩く人間もいるだろうとは考えられる。
「それだけ? 聞き流してれば済んだことじゃないのかしら」
その先の展開もカジェリンにはなんとなく想像できていた。だが敢えて今は口にせず、さらに問うてみる。しかしアディはまた沈黙してしまった——これも予想通りではあるが。
「まあ、そんな人はどこにでもいるわよ。あなたにとってはうんざりすることでしょうけど、いちいち気にしてたらキリが無いわよ」
言葉を選びつつ、わざと突き放すような含みを持たせて言ってみると、アディの目には複雑な色が浮かんだ。ちらりとカジェリンを見たものの、視線がぶつかった途端に目を逸らしてしまう。やっぱり昨日の今日じゃ全部話すところまではいかないわね、と諦めて、空になった二つの器を重ねる。
「さてと、歩けるなら奥の部屋に移りましょうか。そっちの方が静かに休めるでしょ。そこの扉の向こうだけど……付いていきましょうか?」
と手を貸そうとすると、アディは熱の下がりかけたばかりの怪我人とは思えないほどに素早く立ち上がった。丁寧なことに二歩ほど身体を後ろへ引いている——カジェリンの手が届かない距離を空けて。
「いや、一人で行けるから」
「そう? じゃ、後でまた薬湯持っていくから……奥は狭いから気をつけなさいね」
頷いて歩いていくアディの背中を、その姿が扉の向こうに消えるまでカジェリンは目で追っていた。様々な意味で気がかりを感じながら。