未来の花
やや掠れた声で少年が問いかけた。
「診療所よ。私はここの薬師でカジェリン。ボロムさんがあなたをここへ連れて来たの。……何があったかは覚えてる?」
ゆっくり説明し、そして尋ねると、少年は考え込むように俯いた。しばしの沈黙の後「覚えてる」と呟くように言い、首の後ろに手を当てた。
「酒場で喧嘩して……それで団長が」
「あなたを無理やり止めたのよね。ちょっと乱暴だとは思うけど、まあ賢明だったわ」
そう言ってやると、少年は憮然とした面持ちになる。
「顔と、腕以外は目立った外傷はなさそうだけど、他にどこか痛みのひどい箇所とか、気分が悪いとかはないかしら」
「——別に」
と短く答えるのと同時に寝台から下りようとしかける少年を、カジェリンは慌てて止めた。
「待ちなさい、何のつもり?」
「帰る」
少年の答えはあくまで短く、そして素っ気ない。喋っている間も惜しいのか単に面倒臭いだけなのかは知らないが、それはともかく、彼の希望通りにさせてやるわけにはいかない。
「どこに行く気? 団長さんなら多分もう街にはいないわよ。朝までに着いてなきゃいけない仕事があるとか言ってたから。迎えの人を来させるまでの何日かはここにいろって」
じろりと少年はこちらを睨んだ。そこで初めて、カジェリンの姿をまともに見たという感じで、何か推し量るような目つきをした。
どう見られているかは大体推測できる。これまで初対面の相手はほぼ同じように考えていたからだ。
カジェリンは女の中でもかなり小柄な方だ。さらに、老けていないと言えば聞こえはいいが、相当な童顔でもある。身体の外側が十代前半で成長を止めてしまったらしく、以後、年相応に見られたことはほとんど無い。
言われたことがよく聞こえなかった、という態度で再び寝台から下りようとしたので、カジェリンは半ば以上本気を出して相手の身体を押しとどめた。思いがけなかったであろう力に、少年の顔にわずかに驚きの表情が混ざった。
「ちゃんと聞きなさい。私はね、ボロムさんからあなたを預かってるの。そうでなくても、今の状態のあなたを出歩かせるつもりはないわ。分かってないかも知れないけどその腕の傷、それなりに重傷よ。今夜は高い熱が出るのを覚悟しておくことね」
カジェリンが言い聞かせている間にも、彼の目は兆してきた熱のために虚ろになりつつあり、頬は紅潮しかかっている。それでもなお、少年は素直に従う気にはなれないようだった。
「——あんたには関係ないだろ」
「どうやら人の話を聞く耳がないようね。もう一度言うけど私は薬師で、あなたを患者として預かっているの。痛み止めと解熱の薬湯をすぐに作るから、それを飲んで今日は休みなさい。……それからね」
腕を胸の前で組み、わざと重々しい口調にして続ける。
「『あんた』って呼ぶのもやめなさいね。私には名前がちゃんとあるんだし、それにあなたまだ十代でしょう。いくつ?」
「……十五」
「やっぱり。私はこれでも二十八なんだから、それなりの敬意は払ってもらいたいわね」
その言葉に、少年が目を大きく見開き、口を歪めた。表情には「嘘だろ?」と如実に、しかも必要以上に大袈裟に書いてあったので、カジェリンは頬の痣を少々強めにつねり、顔ごと歪めさせてやった。
案の定、いくらも経たないうちに少年はかなりの高熱を出した。薬湯を飲ませてから再び横にならせると、間を置かずにうとうとと眠り始め、朝になってもまだ目を覚まさなかった。
その間、カジェリンはほとんど眠らなかった。夜が明けるまでは、少年の額に乗せた布を水で濡らして冷たく保ち続けるために付き添い、熱が下がり始めたと思ったあたりで、座ったままで少しだけ仮眠を取った。一時間ほどで目覚めた後、今日の診察を行なうために診療所を開ける準備をした。
普段使う寝台が塞がっているので、必要があれば奥の部屋から泊まり患者用の寝台を引きずってこようとも考えていた。しかし幸いにというか、朝のうちに来たのは全員、座った状態での診察と薬の受け渡しで事足りる患者だった。誰もが診療部屋の奥、衝立の向こうに何があるのか気にしている様子だったが、聞かれない限りは何も言わなかった。尋ねてきた何人かには、古い知り合いから預かった患者がいるのだと正直に、且つ当たり障りなく説明した。
診察が一区切りつき、しばらく休憩にしようかと考えた時、奥で物音がした。足を運んでみると、少年がようやく目覚めたらしい。寝返りを打ち、顔をこちらに向けかけている。
カジェリンは近寄り、ずり落ちかけている布を額から取りのけ、手を当ててみた。
「うん、昨夜よりは下がってきたみたいね。気分はどうかしら。お腹空いてきてる?」
熱のせいでまだぼんやりした様子の少年だが、思ったよりも目に力が戻ってきているように見えた。
「……少し」
「そう、食欲があるなら治りも早いわね。ちょうどお昼時でよかったわ。ちょっと待ってなさい」
奥にある厨房に行きかけて、ふと足を止める。
「そうそう、あなたの名前を聞いてなかったわね。ボロムさんからも聞きそびれてたわ。何て名前?」
沈黙があった。その長さと表情から、あまり言いたくないらしいと直感したが、待ってみる。
その無言の催促に観念したようで、かなり聞き取りにくい小声で、少年は「アドラスフィン」と答えた。
カジェリンは瞬きを数回した後、つい吹き出してしまった。途端に少年がすごい勢いでそっぽを向いてしまったので、慌てて謝る。
「ごめんなさい、笑うつもりじゃなかったのよ——それ、ボロムさんが付けたの?」
と尋ねると、相手は顔を背けたまま頷く。
ボロムは、普段は非常に現実的な人間なのだが、事が名付けに関する限り、昔語りや歴史的に有名な人物の名前を好んで選ぶという癖もあった。彼らにあやかるようにと考えての選択だそうだが……それにしても、かつて大陸全土で敵う者はいなかったという、英雄の名前を付けるとは。少年が言いたがらないのも無理はないと思った。
「ええと、そのままじゃちょっと長いし、あなたも多分居心地悪いわよね。略称はアディでいいのかしら? ……なら、そう呼ぶことにするわね」
と言うと、少年——アディはようやく、背けていた顔を心持ちこちらに向け直した(視線はまだあらぬ方向を見ていたが)。呼び方が決まったことで、カジェリンは少し落ち着いた気分になる。
「で、もう一度名乗っておくけど、私は」
「知ってる」
唐突にそう言われたので、一瞬きょとんとした。
「知ってるって……私の名前、覚えてるの?」
「カジェリンだろ。あんた昨夜言ってた」
実にぶっきらぼうな言い方で、普通に聞いていたら、もしかしたら喧嘩を売っているのかと思いそうだった。しかしカジェリンはその口調の中に、微妙に照れらしきものが混じっているのを聞き取った。
どうやら、昨夜の話を一応は聞いていた、ちゃんと覚えていると示したかったらしい。