第五章 騒乱の居城から
1.桜花の告白ー3
蒼天から、はらり、はらりと桜の花びらが舞い降りた。
舞台は、よりいっそう華やかに彩られ、青芝生の客席の者たちは、貴族(シャトーア)令嬢の話が始まるのを固唾を呑んで見守っている。
メイシアは、傍らのルイフォンを見上げた。
「ルイフォン……」
薄紅色の唇が彼を呼んだ。
じっと見つめてくる黒曜石の瞳には、不安の色が見え隠れしている。彼女の手は、彼の手に触れそうで触れないところをうろついていた。
ルイフォンは、その指先を絡め取ろうとして、思いとどまる。
彼女が貴族(シャトーア)の娘として警察隊に対峙した以上、凶賊(ダリジィン)の彼と馴れ合うのはまずかろう。彼女の聡明な頭脳から生み出された策が、どのようなものかは分からぬが、邪魔するような行動は慎むべきだ。
すぐそばにいて、触れてはならないもどかしさ。本当は、彼女の華奢な手を片手で捕まえて抱き寄せ、もう一方の手で彼女の黒髪をくしゃりと撫でたい……。
そんな彼の代わりに、春風が彼女の髪をふわりと揺らしていった。
――不意に、メイシアが体ごと、ルイフォンに向き直った。
「……?」
疑問に眉を寄せた彼をよそに、彼女の両手が彼の顔へと伸ばされた。
彼女の手は彼の頬をかすめ、彼の癖のある前髪に指先が触れる。更に、彼女は爪先立ちになりながら、彼の頭の上に白い手を載せた。
髪に落ちてきた花びらでも、払おうとしているのだろうか……?
ルイフォンはそう思ったが、すぐに否定した。
彼は今まで、幾度となく彼女に触れてきた。しかし、彼女のほうから彼に触れたことなど一度もない。いや、あったかもしれないが、記憶にない。
――という、問題ではなくて、今は警察隊に囲まれている状況だ。この行為になんの意味が……?
困惑するルイフォンの頭を、メイシアの両手が、ぐいっと引き下げた。
「え……?」
目前に、彼女の顔があった。
瞬きする間すら与えられないうちに、彼女の薄紅色の唇が近づいてきて、彼のそれと重ね合わされる。
ふわりとした柔らかな感触。
――その清楚さと同時に、唇のわずかな隙間から漏れ出した吐息が、しっとりした艶めかしさを伝えてきた。
ルイフォンの心臓が大きく高鳴る。
いつもは細い猫の目が、彼女でいっぱいになっていた。
頭上にあったメイシアの手が、そろそろと降りてきて、ルイフォンの背中を捕まえた。ぎゅっと力の入った指先が、彼のシャツに無数の皺を刻んでいく。その温かく湿った感触が、小刻みに震えていた。
いつもの彼女らしいところを見つけ、彼は安堵する。そして、彼もまた彼女の背に手を回し、力強く抱きしめた。
どっ……と、その場が沸いた。
貴族(シャトーア)令嬢のまさかの行動に、誰もが驚きを禁じ得なかった。
この舞台を設けた立役者、先ほど命の危険を顧みずに、この両者を守り抜いた猛者リュイセンは、腰を抜かしかけた。
動揺を隠しきれない警察隊の騒ぎ声に、ルイフォンの男前ぶりを囃し立てる凶賊(ダリジィン)の野次が混じる。
メイシアがルイフォンの背に回した手を外した。
彼女がすっと正面を向くと、ざわめきの波が徐々に引いていく。皆が彼女の次の言葉に注目していた。
彼女は、長い黒髪が地面に付かんばかりに、深々と一礼をする。
そして、玲々とした声を響かせた。
「私は、この方を――鷹刀ルイフォンを愛しています……!」
あたりが、しん……と、静まり返った。
「けれど、私は貴族(シャトーア)、彼は凶賊(ダリジィン)。私たちの仲が許されるわけがありません。私の想いを知った父は、私に内緒で縁談をまとめてしまいました……」
ルイフォンはメイシアの震える肩をそっと抱いた。
「私はたまらず、家を飛び出しました。そして、ルイフォンのもとへ……。これは、誘拐などではありません。私は、私の意志でここにいます!」
「いやぁ……。はっはっは……」
桜の大木が枝を伸ばした先にある部屋のひとつ――執務室にて、イーレオが涙を浮かべながら腹を抱えていた。
その隣では、警察隊の指揮官が、顔を歪めて唇を噛んだまま、拳を震わせている。
これで警察隊は鷹刀一族に手を出せなくなった。メイシアに逆らうも同然だからだ。警察隊に有無を言わせぬだけの権力が、貴族(シャトーア)にはある。
「若いって、いいですねぇ」
イーレオは指揮官の肩を、ぽんと叩いた。
「貴様……」
「ああ、あの果報者が、私の末の息子です」
そう言って、イーレオは桜に祝福されたかのような、ふたりを見下ろす。
『価値』を試してほしいと言った少女が、いったい、どんな策を弄するのかと思えば……。
思い切った見事な芝居に、イーレオは愉快でならなかった。
矛盾はなく、鷹刀一族も、警察隊も、実家の藤咲家も、誰の顔をも立てて丸く収める妙案。――ただし、彼女の貴族(シャトーア)としての名誉を引き換えに。
いくら箝口令を敷いたところで、人の口に戸は立てられぬ。貴族(シャトーア)の娘が凶賊(ダリジィン)の男と恋仲だという醜聞は、尾ひれをつけて広まるだろう。
その意味をルイフォンは分かっていないだろうが、メイシアは理解しているはずだ。
――あの娘は本当に俺を魅了してくれる。
上機嫌で笑いながらも、イーレオは瞳に冷静な色を宿す。
警察隊は『誘拐の容疑』という大義名分を失った。これで王手か、それとも……。
「イーレオ様!」
傍に控えていたチャオラウが、小声ながらも鋭く口走った。
その次の瞬間だった。指揮官が窓に駆け寄り、身を乗り出した。
「嘘だっ……!」
指揮官は叫んだ。
貴族(シャトーア)の娘は、騙されて、この屋敷にやってきた。斑目一族が、そう仕組んだことを指揮官は知っている。
「お前ら、騙されるな! メイシア嬢は脅されているだけだ!」
汚らしく唾を飛ばし、肺の中の空気を全部使って、指揮官は大声でわめき散らす。
「そうでなければ、貴族(シャトーア)の令嬢が、そんな破廉恥な真似をするわけがない!」
こめかみには青筋が立ち、全力で走ってきたかのように、ぜえぜえと肩で息をしていた。
彼の頭の中は、恐怖で埋め尽くされていた。
彼は言われた通りに行動していた。彼自身にはなんの落ち度もなかった。計画通りに進まないのは、斑目一族の目算が甘かったからだ。
けれど――と、彼は思う。凶賊(ダリジィン)の斑目一族が非を認めるだろうか。
答えは否、だ。
お前のせいだ、と言ってくるに違いない――!
彼は追い詰められていた。なんとしてでも、鷹刀一族を悪者に仕立て上げなければならぬと思った。さもなくば、どうなるか……。
「警察隊員に告げる! メイシア嬢を救え! 連中を確保しろ!」
警察隊員たちにとって、その声は、突然、頭上から冷水を掛けられたようなものだった。
彼らは驚き、声の方角を見上げる。
そこに彼らの指揮官がいた。総帥鷹刀イーレオの元へ案内しろと怒鳴り散らし、姿を消したきりになっていた上官が、屋敷の上階の窓から身を乗り出していた。
指揮官の言葉に、警察隊員たちは桜の舞台のふたりに厳しい目を向けた。
作品名:第五章 騒乱の居城から 作家名:NaN