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第五章 騒乱の居城から

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 身を逆立てる彼に、彼女の心臓が悲鳴を上げた。
「ご、ごめんなさい」
 彼女は彼から、ぱっと離れた。
 彼はくるりと背を向けた。そして、回転椅子を滑らせ、少し離れたところのコンピュータと対峙する。
「すまない、メイシア。出ていってくれ」
 モニタを見据えたまま、ルイフォンは言った。猫が威嚇をするように、大きく背中が膨れていた。
 メイシアの顔から血の気が引いていく――。
「い……、嫌です……!」
「邪魔なんだよ!」
 即座に返ってくる拒絶。
 彼は叩きつけるように、キーボードに指を走らせた。モニタ上で表示が切り替わったが、目は文字を追っていない。
 彼女は、飛び出しそうな心臓を、服の上から、ぎゅっと抑えた。
「す、すみません……でも……」
「糞っ」
 動こうとしないメイシアに、苛立ちをあらわにしたルイフォンの悪態が被る。彼は、両手で頭を抱えるようにして机に肘をついた。癖の強い髪を掻きむしり、叫ぶ。
「なんで、分からねぇんだよ!」
 かなぐり捨てるようにOAグラスを外し、掌で顔を覆う。
「…………俺がっ、惨めだろうっ!」
 張り詰めた冷気が弾け飛ぶように、ルイフォンの言葉が砕け散った。
 心の底からの、咆哮――。
「……っ! ――すみません……!」
 そっとしておくべきだったのだ。
 どんなに心配だったとしても、魔法陣の結界は踏み越えてはいけなかったのだ。
 メイシアのしていることは、ただの彼女の我儘に過ぎない……。
「――でもっ!」 
 細い糸を爪弾(つまび)くような声が、凛と鳴り響く。
 まっすぐに顔を上げたメイシアの頬を、透明な涙がすうっと流れた。
「私はっ、ルイフォンのそばに居たいんです!」
 心が強く訴える。
 昨日までの彼女だったら、こんな我儘など言わなかった。
 思ったままに行動することを、他ならぬルイフォンが教えてくれたのだ。
「はっ、なんだよそれ?」
 ルイフォンがくるりと回転椅子を回し、肩をすくめた。嘲りを全面に出した嗤いが、口から漏れる。
 メイシアは思わずひるみそうになったが、虚勢の強気で言い返した。
「直感です! 我儘です! だって、ルイフォンが言ってくれたじゃないですか! 私はもっと直感的に生きたほうがいい、って。我儘を言ってもいいって」
「いつ俺がそんなこと言った?」
「シャオリエさんのお店で、です」
「忘れた」
「でも、私は覚えています」
 メイシアは言い切った。
 OAグラスを外したルイフォンの冷たい視線が、彼女に直接、突き刺さる。
「私は……、私たちが今すべきことは、喜ぶことだと思うんです」
「はぁ?」
 彼の声が甲高く嘲った。それでも構わず、彼女は続ける。
「私は、生まれて初めて、本当に死ぬかと思うような目に遭いました」
 空調のかすかな雑音の上を、透明な声が抜けていく。ひやりとした空気が、熱くなりかけていたふたりを冷やしていく。
「でも、無事だったんです。ルイフォンのお陰で、無事だったんです。奇跡です。それから私、ルイフォンが本当に死んでしまうかと思っ……」
 メイシアの頬を涙の筋が走った。
 ――いくつも、いくつも……。
 埃まみれの顔が、そこだけ奇妙に拭われていくのをメイシアは感じた。
 きっと、とんでもなくみっともない顔をしているに違いない。けれども、彼女は涙を止めることができなかった。
「『ありがとう』って言いたい。あなたも私も、皆が無事だったことを、喜びたい。『今、あなたと一緒に』喜びたいんです……!」
 硬質なリノリウムの床が、メイシアの叫びを拡散させた。彼女の思いは乱反射して、あちらから、こちらから、ルイフォンを包み込む。
「メイシア……」
 ルイフォンが回転椅子の背にもたれ、仰ぐようにメイシアを見上げた。涙でべとつき、汚れた黒髪の張り付いた顔が、何よりも美しく見えた。
 戦乙女だ、と彼は思った。
 貧民街で、彼が地に伏し〈蝿(ムスカ)〉の凶刃にかからんとしていたとき、彼女はタオロンの大刀を掲げて彼を救った。あのとき地面から見上げた彼女の姿もぼろぼろだったけれど、煌めきに満ちた魂が優しく、温かく、力強く――彼を魅了した。
 ルイフォンの口元が自然に緩んだ。
 下手な気休めを言われたのなら、跳ね返すことができた。
 けれど、彼女の言葉は、彼の想像を遥かに超えていた。
「……すまなかった」
 彼は、癖のある前髪をくしゃりと掻き上げた。こんな安らぎのそばで、険のある顔をし続けることなどできない。
「あの人工知能は、昨日今日に作られたものじゃない。ずっとあったんだ。今、焦っても仕方ないな」
 ルイフォンはメイシアと向き合う。その顔には、彼らしい、奔放な猫のような表情が蘇っていた。
「ありがとな」
「え?」
「そばに居てくれて、ありがとな」
 そう言うと同時に、ルイフォンは立ち上がり、メイシアを抱きしめた。
「きゃっ」
 メイシアが可愛らしい悲鳴を上げる。ルイフォンの腕の中で、真っ赤になる。
「何、照れているんだよ。さっき、お前、俺のこと抱きしめたろ?」
「あ、あああああ。す、すみません……!」
「謝ることじゃないって。それより、一緒に風呂に入ろうぜ? お前も俺もどろどろだ」
 彼は彼女の体をひょいと抱き上げると、そのまま続き部屋にある浴室に向かおうとする。
「すすすすみません。勘弁してださい!」
「いいから、いいから」
「よくないです! 下ろしてください!」
 相変わらずの嗜虐心をそそる反応に、ルイフォンは目を細めた。
 魅了される――。
 彼女に惹きつけられてやまない。
 異母弟ハオリュウが現れ、協力体制を敷いたことによって、彼女の身柄がどうなるのか分からなくなった。
 ……おそらくは、貴族(シャトーア)の彼女を凶賊(ダリジィン)の屋敷に残すなんて猛反対が起こるだろう。
 貴族(シャトーア)と凶賊(ダリジィン)が、共謀以外の関係で、共にあるなんてあり得ないのだ。
「…………」
 ルイフォンの小さな呟きを聞き取れず、メイシアは「え?」と聞き返した。
「なんでもない」
 軽く笑って、彼は彼女を下ろした。
「それじゃ、風呂に入るか」
 そのまま、彼女の目の前で、汚れた衣服を脱ぎ捨てる。細身であるものの、チャオラウに鍛えられた若々しい肉体が晒され……彼の期待通りに彼女が悲鳴を上げた。
 彼女が顔を真っ赤にして慌てる様(さま)を、彼は目を細めてにやりと堪能する。
 この可愛らしい小鳥が無事で、本当に良かったと思う。
 ……不意にルイフォンは、床に投げ出した服の波間に、金色の光を見つけた。
 はっと気づいて拾い上げる。
 ――母の形見の鈴。
 いつもは、編んだ髪を留める、青い飾り紐の中央に収めているもの。貧民街でタオロンを縛るために紐が必要になったため、鈴は外して懐に入れておいたのだ。
 彼は馴染みの感触を指先で確かめ、大切に握りしめた――。


〜 第五章 了 〜


作品名:第五章 騒乱の居城から 作家名:NaN