第五章 騒乱の居城から
3.冥府の守護者ー3
イーレオの指示で、皆が慌ただしく動き始めた。
そんな中で唯ひとり、ルイフォンだけは動かなかった。
「ルイフォン……?」
メイシアが遠慮がちに声を掛ける。
彼を印象づける、特徴的な猫のような表情が消えていた。鷹刀一族の血を示すような、本来の端正な顔立ちが浮き彫りになる。しかしそれは、彼をただの彫像のように見せる効果しかなかった。
「ルイフォン、お前は医務室に行け」
イーレオの声が飛んできた。
ルイフォンの口元は切れ、乾いた血が固まっていた。何度も打撃を受けた腹部は、見た目はシャツが汚れているだけだが、その下の体はどんなにか痛むことだろう。上着はところどころ擦り切れ、ボタンが飛んでいる。
貧民街からずっと、彼はメイシアを守り抜いてきた。
メイシアは、胸が締め付けられるような思いで、ルイフォンを見つめる。いくら感謝してもしきれない。やっと落ち着いた状況になったのだから、彼には休んでほしいと思う。
しかし、ルイフォンは――。
「ルイフォン、イーレオ様が……」
まるで何も聞こえていないかのようなルイフォンの袖を、メイシアはそっと引いた。そのとき初めて気づいたかのように、彼は、はっと目の焦点を戻す。
「あ、ああ……? 何か言ったか?」
「イーレオ様が医務室に行くようにと」
「あ、ああ」
返事をしつつも、やはりどこか上の空である。
「おい、ルイフォン、また頭が異次元に行っているぞ」
つかつかとリュイセンが寄ってきて、ルイフォンの額を指で弾いた。
「……痛(い)ってぇなぁ」
「お前、見事にぼろぼろだぞ。見苦しい。このあと皆で昼食を摂って作戦会議だ。その前にその格好をなんとかしてこい」
「……分かった」
「付き添わせてください」
退出するルイフォンの猫背に、メイシアは思わず駆け寄った。
メイシアの視界の端に、ハオリュウの顔が映る。警察隊のシュアンと何やら話し込んでいた異母弟は「姉様!」と鋭く口走った。
目で制止をかけてくる異母弟を、彼女は直視することはできなかった。ただ無言で頭を下げ、振り切るようにルイフォンを追いかけた。
口を結んで大股に歩くルイフォンを、メイシアは小走りに追いかける。彼が向かった先は医務室ではなく、彼の自室だった。
閉まりそうになる扉にメイシアは滑り込んだ。入った瞬間に、冷気が彼女を包む。汗ばんでいた体が、ひやりと震えた。
廊下ですら絨毯が敷き詰められたこの屋敷の中で、リノリウム張りのルイフォンの仕事部屋。人間より機械が優先される環境は、昨日来たときと寸分変わっていなかった。
「ルイフォン、傷の手当ては……?」
「平気だ」
車座に並べられた机の上に、幾つもの機械類が載せられている。その輪の中に、ルイフォンは入っていく。
回転椅子に座り、置きっぱなしのOAグラスを無造作に掛けると、無機質な横顔になった。キーボードに指を走らせると次々にモニタが点灯し、彼の姿が青白い光に照らし出される。
彼が何をしようとしているのか。コンピュータに詳しくないメイシアでも分かった。
執務室に突如現れた〈ベロ〉。
ルイフォンが制御できない、存在すらも知らなかった『もの』。
その所在を探しているのだ。
「ルイフォン……」
「なんだ?」
抑揚のないテノールが、メイシアの心臓に突き刺さった。
ルイフォンは今、リュイセンが言うように異次元にいる。ケーブルに囲まれた円陣は、別世界への魔法陣なのだ。
「なんでもありません」
出逢ってから、たった一日。
知らない顔があるのは当然のことだ。
――打ち解けたと思っていたのは、世間知らずの自分のほうだけだった。
ずきりと痛む心臓を抑え、メイシアはそっと後ろに下がった。
彼のことは気になるが、彼女がいても邪魔になるだけだ。それより、部屋に戻って着替えでもしておくべきだろう。
彼女は踵(きびす)を返した。
「糞っ! どこにあるんだ!?」
突然、強い打鍵の音と共に、ルイフォンが叫んだ。
「何故、俺の命令を無視する!? ふざけんなよ!」
驚いたメイシアが振り返ると、ルイフォンが机に拳を叩きつけていた。解かれたままの髪を振り乱し、血走った目でモニタを睨みつけている。
彼女は顔色を変えた。
彼が機械類を扱うとき、今までは表情豊かな得意げな猫の顔か、機械と一体化したかのような無機質な顔をしていた。両極端のようだけれど、どちらも研ぎ澄まされたような聡明さがあった。
しかし、目の前の彼は、癇癪を起こしている子供であった。
「ルイフォン?」
恐る恐る声を掛けると、集中したときには反応を返さないはずのルイフォンが、こちらを向いた。
「メイシア」
モニタ画面を反射したOAグラスは、青白く半透明に輝いており、その下の彼の表情は窺うことができない。
「あれは現在の技術レベルを超えたものだ。自由に考え、勝手に行動する……!」
まるで弾劾でもするかのように、ルイフォンは言った。そして、戸惑うメイシアに尋ねる。
「お前には、あれが何に見えた?」
「『人工知能』、でしょうか……?」
「そうだろうな。だが、中に人間が入っているような、あんな柔軟な代物は存在しないはずなんだ。俺自身が、ずっと研究してきたから知っている。なのに……」
彼は唇を噛んだ。その拍子に口元の傷が開いてしまったのか、一瞬、顔を歪める。しかし、彼は更に強く唇を噛んだ。メイシアにはそれが自傷行為に見えた。
「俺が制御できない代物の存在を、誰も疑問に思わない。悪意ある侵入の可能性も心配もしない。……これがどれだけ異常なことか……!」
ルイフォンが吐き捨てる。
「……分かっている。あれは母さんが作ったものだ。外部からの侵入なら俺が気づいている。だから、母さんしかあり得ない……」
彼の強く握りしめた拳が、白く震える。
「誰もがあっさり受け入れるのは――あれが、母さんが作ったものだからだ……!」
ひやりとした空気を切り裂いて、響き渡る叫びは、嗚咽だった。
絶対の自信を持っている分野で、児戯だと言われたのだ。
――人ではない、母の遺産に。
うなだれた猫背が哀しい……。
メイシアにとって、〈ベロ〉はまったく未知のものだ。
それでも、彼の様子から〈ベロ〉は、とんでもないもので、制御できなければならないものだということは分かる。
だから、必死になって調べるというのなら、ルイフォンが異次元に行ってしまうのでもよかった。
けれど――。
今の彼は、粉々になった矜持に視界を遮られた、迷子だった。
孤独の輪の中で、自分が迷っていることにも気づかずに、ひとり苦しんでいる。
メイシアの足先が、リノリウムの床に硬い響きを立てた。
彼女は、床を這っているケーブルを越えた。
――魔法陣の結界を破って、彼の聖域へと踏み込んだ。
「ルイフォン……」
メイシアは、うつむいたルイフォンの頭を両腕で包み込んだ。彼女の長い黒髪が、彼の背中を覆い、絡め取る。何処かに流されてしまいそうな彼を捕まえるかのように。
その瞬間。
彼の肩がびくりと震えた。
「なんの真似だ?」
低い、低い声――これ以上、近づくなとの警告の声で、ルイフォンが唸った。
作品名:第五章 騒乱の居城から 作家名:NaN