二度目に刺される
――なるほど、自由な気分でいるから、教え方も優しいんだな――
彼の教えかたは、ゆっくりで、しかも、適格だった。余計なことを口にすることはなく、決して間違っているとは言わない。
「何が正しいというものはない。本人が正しいと思えば、それが正しいことなんじゃないかな?」
そう言って頷いていた。
――自分に問いかけているようだ――
自分を納得させながら教えているに違いなかった。
友達がサンプルで用意した絵の被写体は、リンゴだった。
「リンゴは、赤い色が特徴だけど、まずは色を意識することなく、鉛筆でデッサンしてごらん」
そう言って彼は見本を見せてくれた。
そこには、色はついていないが、光と影がハッキリと分かる絵が描かれていた。
「デッサンというのは、光と影をいかに表現するかだと思うんだ。リンゴのように、赤い色が特徴のものを白と黒のモノクロで描くのは、光と影をどのように表現するかということの課題としては、いいサンプルになると思うんだ。だから、まずは色に惑わされることなく、光と影をいかに表現するかを感じてほしい」
「考えるのではなく、感じるのかい?」
「そうだよ。考えるということは、そこに主観が入ってくる。絵を描く時に主観が入ってはいけないというわけではないんだけど、光と影の両極端なものを描く時は、客観的にモノを見る目が必要だと思っているんだ」
彼の言うことは、説得力があった。
――これで入門編なんだ――
そう思うと、絵画の奥の深さを感じることができた。
リンゴを自分では綺麗に描くことができたと思っていた。友達も、
「うん、なかなか光と影をうまく表現できていると思うよ。後はバランス感覚と、遠近感だね」
そう言って、彼は健太の描いた絵を、いろいろな方向から見つめていた。
「バランス感覚と遠近感というのは、本当なら一番最初に考えるものなんじゃないのかい?」
「本当はそうだよ。でも、僕はまず光と影の区別から、バランス感覚と、遠近感を掴むことができると思っているんだ。そういう意味では、君の絵は、すでに両方を掴んでいるような気がするよ」
「そうなのかい?」
「ああ、バランス感覚も遠近感も、どちらも訓練するのは難しい。感性の問題を含んでいるからね。でも、光と影は見た目で描ける。描いたものを見ていれば、そこにどれほどのバランス感覚と遠近感が潜在しているかが分かるというものだからね」
彼は、重要な言葉を繰り返し口にするのが癖のようだ。普通ならしつこいと思えることでも、彼の口から言われると、違和感がない。それだけ自分も絵画に没頭していたということなのかも知れないが、そのことは、自分でいうのも何だが、自分が描いた絵を見ていれば分かることだった。
習ったことを念頭においてランプの絵を描いていると、次第に自分のイメージと違ってきたのを感じた。
「やっぱり、下手なのかな?」
と思いながら描いていると、後ろから妹の早紀が寄ってきて、
「お兄ちゃん、何してるの?」
「このランプを描いているんだよ」
「お兄ちゃん、なかなか上手よ。特徴を掴んでいるわ」
「そうかい? 自分で描いていて、イメージと合わないんだけど、どうしてなんだろう?」
「お兄ちゃんは、絵を描く時、目の前にあるものをそのまま忠実に描こうと思ってない?」
「普通、そうなんじゃないかな?」
「そんなことはないわ。同じ被写体を見ても、見え方は人それぞれ、それに時間が経てば経つほど目が慣れてきて、最初に感じたイメージと見えているイメージは違ってくるものなのよ。だから、最初にイメージしたものを思い浮かべていては、目に見えるものをそのまま描いたんじゃあ、違ったイメージになるのは当然なんじゃないかしら?」
妹の話を聞いて、目からうろこが落ちた気がした。しかし、それでは自分のイメージと違うという問題に対しての根本的な解決にはなっていない。
「でも、それでいいのかな?」
「私はそれでいいと思うわ。お兄ちゃんは納得できないの?」
「うーん、自分としては納得できない気がするな」
「それじゃあ、今見えている感覚はきっと目が慣れてきていることで、少し遠くから見えているような気がするので、小さく感じているんじゃないかしら? だとしたら、自分で感じているよりも、少し大きめに描いてみるのもいいかも知れないわ」
「今からだと、修正は難しいよ」
「だったら、今描いているのは中心部からのようなので、まわりの背景で、余分だと思う部分を大胆に省略してみるのも手かも知れないわ」
「何が余分なのかって、分からないよ」
「そんなことはないわ。描いていくうちに気づくはずよ。お兄ちゃんは、今まで絵を最後まで描きとおしたことあった?」
言われてみれば、最近始めた絵画なので、自分で納得がいかない方向に向かえば、すぐに投げ出していたような気がする。
それを妹に言うと、
「そうでしょう。だったら、一度自分に納得がいかなくても、とりあえず最後まで描いてみればいいのよ。今私が見た印象と、お兄ちゃんが感じている印象でも違うんだから、最後まで描き切って、満足感を抱きながら自分の描いた絵を見てみると、感覚もきっと違っているはずよ」
――なるほど確かにそうかも知れない――
今まで妹のことを、どうしても自分よりも年下なので、自分の方がしっかりしていると思っていたが、ここまでのことが言えるほど成長していたのを見ると、複雑な思いを抱いた。
――女性の成長は男性よりも想像以上に早い――
というのは分かっていたが、年が三つも離れていては、少々のことがない限り、自分の方が大人であると思うのは当然だった。
実際に、妹は、
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
と言って甘えてくる。
兄の言うことはちゃんと聞いてくれるし、いつも兄を頼ってきてくれる。そんな妹を可愛く思い、いとおしく感じていたのだ。
それなのに、今では兄に対して意見ができるほどに成長していた。しかし、それは逆に言うと、自分が成長していないということの証明でもあった。妹の成長は素直に嬉しいが、それ以上に自分が成長していないとすれば、これは深刻な問題である。
「早紀の言う通りにやってみようかな?」
というと、嬉しそうな表情はいつもの妹で、安心感があった。
それに加えてドキッとした感覚があったのも事実で、気が付けば妹も高校生になっていた。大人の女性の色香を醸し出す年齢に近づいてきた証拠である。
「子供から大人になるのが顕著に見えるのは、男よりも女の方なんだろうな。だから男は女性に欲情する」
「女性だって欲情するだろう?」
「女性は、男に欲情するんだろうか? 女性同士だってありの気がする。もっとも男もそんな女を見て欲情するんだけどな。でも純情なのは、男の方なのかも知れない」
女性に対して偏見を持っているわけではないが、男とは明らかに違った欲望を持っていると思っている友達は、そう言っていた。