二度目に刺される
――僕はずっと妹の早紀を守っていくつもりでいたので、早紀のことを包み込むように見ていた。それが兄としての目であり、慕ってくれている妹に対しての最善の態度だと思っていた。でも、こんな気持ちになった最初っていつだったんだろう?
そんなことを考えたことはなかった。
生まれた時から感じていたわけはないので、自分が兄として自信を持ったのか、あるいは、誰か友達の姿を見て、兄というものに目覚めたのかなのではないかと思った。
しかし、過去を思い出しても、きっかけになるようなものは思い浮かばない。健太の性格から考えると、よほど印象に残ったことがなければ、自分に思い立たせることはできないはずだ。何か自分を納得させるもの、つまり自信を持たせるようなことである。
今までは、それまで嫌いだった勉強をするようになったきっかけ、異性に興味を持った時のきっかけ、思い出そうとすればできることだった。
それなのに、絶えず気にしている妹のことを、自分から気にするようになったきっかけを思い出せないことが不自然な気がした。
――もっと他に、肝心なことで思い出せていないことがあるのかな?
とも思ったが、
――それよりも、この「ハチに刺された」という事実を忘れていたということが、自分の中で妹への思いに繋がって行ったのではないか?
と感じた。
それは、申し訳ないという懺悔の念と、その時に自分が子供だったこともあるが、何もしてあげられなかったことが原因ではないかと感じたからだ。
もう一つ気になることがあった。
この別荘にいる時、普段とはまったく違う人間になったような気がしてくることだった。別荘に来るのはいつも決まったメンバーだった。家政婦さんが三人と、執事関係の人が二人であった。この五人は、自分と妹が小さかった頃から変わっていないような気がする。だから、先ほど一人の執事に、ハチに刺された妹のことを聞いたのだ。
――それにしても、あそこまでハッキリと言わなくても――
と思ったが、今度はまた別の疑念が浮かんできた。
――普段は、あんな言い方をしないはずのいつもは優しい執事が、どうして急に態度を変えたんだろう?
確かに、いずれは話さなければいけないことだったに違いないが、それにしても、言い方というものがあるだろう。あれでは、相手にショックを与え、いくら事実とはいえ、必要以上に、相手に事実を押し付けているようじゃないか。
――おや?
そう思うと、また違う疑念が浮かんできた。
「木を隠すには森の中、一つのウソを隠すには、九十九の本当の中に紛れ込ませればいい」
とよく言われる。
また、手品師のやり方として、
「右手を見ろと言われると、そちらを見てしまう。そんな心理をうまく使うのが手品師だ」
という話も聞いた。
いわゆる、「ブービートラップ」というものであろう。
さっきの話の中で、あれほど強調して、事実という言葉を言ったのは、それが事実ではあるのだろうが、その中に何か欺瞞が含まれていて、それを知られたくないという思いがあったのかも知れない。
強くいうことで、相手の心理をミスリードしていると言えるのではないか。
――しかし、僕が覚えていないというのは、どう解釈すればいいんだろう? 記憶を失うほどショックなことがあったからなんだろうが、執事の話はなるほどショックではあったが、記憶を失うほどではない。一人でしばらく考えれば気持ちも落ち着いてくるからだ――
と感じていた。
何といっても、
「いまさらどうしようもないことじゃないか」
と言えばそれまでだからだ。
これから先をどう接すればいいかということだけで、それこそ少し冷静になって考えれば、そんなにショックが尾を引くことでもないはずだ。
そう思っていると、子供の頃にkの別荘に来た時、家政婦の一人に、中島せつさんという人がいるが、その人といつも一緒だったような気がする。自宅にいる時は、いつも妹の方の世話ばかりしている人で、顔を合わせることすらレアだった。自分たち兄妹は、両親がかなり高齢になってからの子供だったので、親が可愛がってくれるよりも、子供の方とすれば、どこか距離を感じてしまっていた。その分、別荘に来てから中島せつさんと一緒にいる時が、本当に母親といるようで楽しかった。
「健太坊ちゃんは、大人になったら、どんな人になりたいですか?」
とせつさんから聞かれた時、
「お父さんやお母さんを大切にできる大人になりたい」
と答えた時、何とも悲しそうな表情をしたせつさんを思い出した。
だが……、別荘での小さい時の記憶は、そんなに残っているわけではない。楽しかったという印象はあるのだが、印象があるだけで、その時々に何があったのかということはなぜか記憶から遠くにあるような気がしていた。
――それだけ、毎日の暮らしとはまったく違っていたのかも知れないな――
と感じた。
――せつさんがお母さんだったらな――
別荘にいる時はいつもそう思っていた。
しかし、家に戻ってからのせつさんは、あまり好きではなかった。妹の世話をしてくれているのだが、妹に対しては自分と一緒にいる時のような楽しそうな雰囲気は感じられず、いつも悲しそうな表情をしていた。
それは、健太に哀れみの気持ちを起こさせるほどのもので、健太としても、
――お願いだから、こんな気持ちにさせないでよ――
と言いたいくらいで、いつも悲しくなってしまうのだった。
そういう意味でも、別荘での暮らしと家での暮らしはまったく違っていた。だから、子供の頃の記憶、しかも別荘での記憶はほとんどなかったのだ。
――早紀がハチに刺されたという事実の記憶がないというのも、そんな別荘での暮らしの中の一つとして、記憶がなくなっていたんじゃないか――
と考えられるのではないだろうか。
健太は、自分の中に一つ大きな疑念があるのを感じていた。しかし、これは決して口に出してはいけないことではないかと思っていたが、理由はそのことを考え始めても、堂々巡りを繰り返すだけで、どんどん苦しみのアリジゴクに嵌り込んでしまうことを感じたからだ。
この思いは、本当は墓場まで持って行かなければならないことではないかとも思っている。自分の思いが本当であれば、苦しむのは自分だけではないということが分かっているからだ。
そんなことを考えながら、ボーっと窓から表を眺めていると、どこからともなく悲鳴が聞こえた。
「キャー」
とっさに、その声の主が妹であることはすぐに分かった。
そして、その後に、別の家政婦の声、あれはせつさんとは違う声だった。健太は思わず携帯の着信音を思い出した。
――あれもどこから聞こえるものなのか、分からないよな――
と思いながら、部屋を出て、急いで表に出た。声が表からしたのを感じたからだ。
「お嬢さまが、お嬢様が」
と慌てている家政婦に、執事が訊ねた。
「どうしたんだい、一体」
「お嬢様が、ハチにお刺されになって……」
家政婦は腰を抜かして、苦しんでいる妹に指差した。
「とにかく病院だ」
と言って、落ち着いている執事が携帯で医者に連絡をしている。