二度目に刺される
唐突に健太がそういうと、ミラーに写った桂の顔は満面の笑みに変わり、
「覚えていてくれたんですね? 光栄です」
と、
――運転手冥利に尽きる――
と言わんばかりの表情をした。
そのしたり顔を隠そうともしない桂は、健太に対しては、あまり自分の気持ちを隠すようなことをしなかった。
健太は、そんな桂が好きだった。子供の頃から、両親に内緒にしておきたいことは、桂にだけ話をしていた。そんな相手がいたことを健太は覚えていたが、この時の満面の笑みを見て、またしても、その時の相手が桂であることを確信したのだった。
今度は、桂にそのことを告げなかった。何も言わなくても、阿吽の呼吸を感じることができることを分かっているからで、
――この人なら、早紀と二人だけでも大丈夫だ――
と思ったほどだ。
移動中に早紀と話が弾まなかったのは、少し残念だったが、目的地までは当初の予定通り、約三時間で到着した。その三時間も、最初の一時間が結構時間を費やしたように感じたのに、その後は気が付けば過ぎていた。
――最終的には、三時間という時間が妥当な時間だった――
と感じられた。
別荘は、子供の頃に感じていたよりも、小さなものだった。
「子供の頃は、まるでお城に来たような感覚だったのに」
その言葉を聞いた早紀も、ニッコリと頷いた。
早紀はそのことに敢えて答えることはなく、
「空気がおいしいわ」
と、背伸びした姿を見ると、
――そうだ、精神的なリハビリが目的だったんだ――
と、改めて別荘に来た目的を再認識した。
部屋に入って少し休憩すると、すぐに夕食の時間だった。
相変わらず、大きな食卓に二人だけ少し離れた場所に腰かけた。どうして、席を離さなければいけないのか分からなかったが、別に席を離さなければいけないという決まりがあるわけではない。分かってはいたが、慣習に逆らう気もなかったので、二人は指示された場所に腰かけた。
食事を初めてから少しして、思い出したように早紀が口にした。
「そういえば、前に来た時、この別荘でハチに刺されたことがあったわ」
健太にとっては唐突だった。
「そうだっけ? お兄ちゃんは覚えがないな」
それには早紀も意外そうな顔をした。
しかし、早紀は子供の頃を思い出しながら、
「そういえば、あの時結構たくさんの人が来て騒ぎになった気がしたんだけど、その時、お兄ちゃんの姿はなかったような気がするわ」
兄のことを一番気にしている早紀が、兄のいなかったことを不安に感じなかったというのはおかしな気がする。
しかし、考えてみれば、
――ハチに刺されて少し醜くなった姿をお兄ちゃんに見られたくない――
という思いがあったのも事実で、お兄ちゃんがその場にいなかったことに安堵したのを思い出していた。
「ハチってどんなハチだったんだい?」
健太が聞くと、
「確かスズメバチだったって聞いているわ。かなり痛かったのを覚えているわ。その日だけで痛みが引いたという気はしなかったから」
――そんな数日も痛みが残ったような時期、早紀の異変に気付かなかったというのもおかしなことだ――
と健太は考えていた。
――数日間、僕は家族と離れて、どこか他に行っていたのだろうか?
確かに、離れていた時期があったのを思い出してきたが、その時の心境を思い出すことはできない。
――事実としての記憶を思い出すことはできるんだけど、意識の記憶を思い出すことはできないんだ――
と、自分の中の記憶装置が中途半端な状態なのかと、疑いたくなった。
すると、今度は違った意識が生まれてきた。
――思い出したくない記憶なので、敢えて思い出さないようにしているのかも知れない――
と感じた。
健太は、自分が誰かに誘われて出かけていったのだが、その時、後ろに視線を感じていた。その視線を子供心に、
「怖い」
と思った。
なるべく早く、相手から逃れたいと思う一心で、急いでその場から立ち去ろうとした意識があった。
自分を誘い出した人も、そんな健太の様子を見て、最初はビックリしたようだったが、健太が嫌々ついてきているわけではないということが分かっただけで安心したのだった。
健太は、自分の過去の記憶と、早紀がハチに刺されたことの記憶とがどこかでシンクロしているのを感じた。健太は忘れてしまったことを思い出そうとしていたが、思い出すことが果たして健太にとっていいことなのかどうなのか、一体誰が分かるというのだろう? 記憶というものが、意識を凌駕するのか、意識が記憶を凌駕するのか、健太が記憶を引き出そうとする思いは、その答えを求めているように思えてならなかった。
「そういえば私、ハチに刺されたという記憶、最近思い出したような気がするの」
「どういうことだい?」
「私も、さっきから考えていたんだけど、分からなかったの。実は、ここに来てすぐにハチに刺されたことをハッキリと思い出したんだけど、それまでは漠然としていたのね。それがある程度分かってこないと、口に出してはいけない気がしたのよ」
「じゃあ、ある程度分かってきたのかい?」
「ええ、まだハッキリとまではいかないんだけど、実は交通事故で記憶が欠落したと思った時、ハチに刺されたという意識がその時に飛んでしまったのよ。それを思うと、あの時の交通事故も、それから記憶が欠落したことも、何か今に繋がるための前兆のようなものだったんじゃないかって思うのよ」
「ということは、これから何かが起こる前触れとでも言いたいように聞こえるんだけど?」
「そうなのかも知れない。そうじゃないのかも知れない。でも、私は少なくとも、記憶があの時に欠落していたというのは、何か意味があったんじゃないかって思うのよ。少しの間忘れてしまうことがあったり、思い出せないことがあったのなら、そう簡単に思い出せない気がするはずなんだけど、思い出してしまうと、どうして思い出せなかったのか、自問自答を繰り返す自分がいるのを感じるの」
「あまり思い詰めない方がいいんじゃないかな? せっかく別荘のような自然の中で過ごせるところに来たんだら、ゆったりとした気分でいればいいんだよ」
「そうよね。でも、自然というのが、本当は一番怖いと思ってしまう。これも私の悪い癖なのかも知れないわね」
早紀に言われて、ハッとした。
確かに、自然というのは相手が人間と違って、忖度してくれるわけではない。それだけに早紀のセリフには説得力も重みもあった。そう思うと、早紀が思い出したハチに刺されたという経験が、この後のここでの生活にどのような影響を及ぼすのか、考えなければいけないと思った。
健太も、この別荘で起こったことをすべて覚えているわけではないという疑念は元々持っていた。今回、早紀から聞かされたハチに刺されたことがあったということを覚えていなかったのは、その疑念を裏付けるものとなってしまった。
――他にどんな重要なことを忘れてしまっているのだろうか?
今回のように、
「そういえば……」
と言って、相手から教えてもらえるのであればいいのだが、教えてもらえない時は、永遠に分からないままなのかも知れない。
しかし、果たして思い出すことが本当にいいことなのだろうか?