二度目に刺される
早紀は、兄の健太に彼女ができたことも、いつの間にか失恋していたことも分かっていた。しかし、別れた状況に関してまでは想像できておらず、まさか自然消滅だったなど、考えつくものではなかった。
早紀は、兄に似て、勘のいい女性だった。
でも兄と違って、恋愛に関しては鋭いところがあった。
「さすが兄妹。勘の鋭さは似たところがあるね」
と、早紀は先生から言われたことがあったが、同じ勘の鋭さでも、対象が違っていることまでは、先生も分かっていなかったようだ。
それは男と女の違いからなのかも知れない。女の方が恋愛に関しては鋭いというのは、健太も早紀にも分かっていた。
また、男と女では、成長のスピードが違うことを二人とも分かっているつもりだったが、より敏感に感じていたのは、兄の方だというのは、意外に思われるかも知れない。
もちろん、女の方が肉体的な変化が序実なので、敏感に感じるのは当たり前のことなのだが、男も言い知れぬ感覚に陥ることで、敏感になっても不思議ではない。却って、正体は曖昧な方が、敏感に感じられるというのも理屈に合っているかも知れない。
十歳になるくらいまでは男性の方が成長は早いが、それを過ぎると、女性の方が一気に成長を早める。それは思春期に入る前に、女性に訪れる初潮が大いに影響していることだろう。
精神的なものとしても、女性の方が成長は早い。女性の中には、同級生の男子が幼く見えている女の子もいるだろう。
しかも、男子がちやほやしてくれるのを感じると、まるで女王様になったような感覚になるのも無理のないことだろう。
ただ、その時に女王様として君臨しているつもりになった女の子の中には、架けられた梯子を下ろされて、気が付けばそれまでまわりにいた人たちが、全員去ってしまっていることに初めて気づいて、ハッとする女の子もいる。
「どうしてそんなになるまで分からなかったの?」
と言われるのだろうが、女王様として君臨してしまうと、まわりを見ることをしなくてもいいような錯覚に陥ってしまうからではないだろうか。
健太と付き合っていた女の子も、健太の気づいていない間、まわりの男性から受ける視線を敏感に感じていたようだ。健太を意識しながらまわりの視線を意識していると、どこを見ていいのか、自分の視線に対して、客観的にしか見ることができなくなってしまったのだ。
健太はそんな彼女を温かく見守っていたつもりだったが、自分が女王様として君臨していたつもりで感覚がマヒしてしまっているのには気づかなかった。どこかプライドが高い雰囲気を感じていたが、それも、女の子の方から告白してきたのだからあり、その積極性が彼女のいいところだと思っていたからだ。
彼女は決して、甘えるような雰囲気を見せない。そこは女王様として君臨できるだけの技量があったのだろうが、その技量に、まわりの男の子たちがついていけなかったというのが本音であろう。
健太は、彼女のことを大人だと思っていた。自分が子供だとは思っていなかったが、
――女の子は男が守ってあげなければいけない――
という思いがいつしか薄れていくのを感じた。
もし、他の女の子だったら、そんなことはないのだろうが、それでも、他の男子のように、外れた梯子をそのままにして、彼女の前から去ってしまうようなことができるわけではなかった。
ただ、ぎこちなさが残ったのは確かだった。気を遣わないつもりだったにも関わらず、相手に却って気を遣わせてしまったことに気づいた健太は、何も言えなくなった。健太が何も言わなければ、彼女の方から言葉を発することはできない。お互いに超えてはならない結界を超えてしまったような気がしていた。それが、自然消滅に繋がったのだ。
せっかく異性に興味を持つようになってすぐ、女の子の方から告白してくれたのに、チャンスを生かすことができなかったことへの後悔は、かなり強かった。考えてみれば、異性に興味を持ってすぐに告白されたのだから、心の準備もできていなかったこともあって、うまくいかなかったのは、仕方のないことだったのだろう。
健太は、高校に上がった頃から、異性に興味を持ちながらも、いつの間にか自分の世界を作っていて、意外と自分の世界が居心地のいいことに満足していた。健太がクラシックや骨董に興味を持ち始めたのはその頃で、高校三年生の頃になると、受験勉強の息抜きに、アンティークショップに立ち寄ることも多くなった。
たまに気になったものを購入することもあったが、まだまだ高校生では、それほどたくさんのものを買うことはできなかった。大学に入学すればアルバイトもできて、自分で稼いだお金で骨董品を買ったりもしていた。
レコードプレイヤーも、大学生になってから、その店で買ったのだが、レコード針は手に入らない。何とかいまだに製造しているところを突き止めて、入手できるようにしてはいたが、消耗を考えて、レコード鑑賞はなるべく控えるようにしていた。
思春期の経験が、健太を骨董趣味に変えたと言ってもいいかも知れない。
ただ、健太の骨董趣味は、ただの道楽ではない。
「古いモノには、古いモノにしかないものがあるんだよ。それは幾多の時代を駆け抜けてきた。そして、その時代時代の目撃者になって、何とか生き延びてきたという、いわゆる『生命力』のようなものがあるんだ」
と、アンティークショップの店主は言っていたが、健太も同じ気持ちで、
「まさしくその通りですね」
と、骨董品を見ながら呟いた。
「そういえば、絶対音感を持っている人がいるって言いますわよね」
妹の早紀が呟いた。
クラシックを聴く時、最初は一人が多かったのだが、
「私もご一緒してもいいかしら?」
と妹の早紀が言うので、
「いいよ」
と答えた。
早紀は、まさしくお嬢様だった。喋り方も上品で、この屋敷に似合っている。白いワンピースが似合うのは、スラっとした体形が、だだっ広い建物が重厚な雰囲気を醸し出す中で、映えて見えるからなのかも知れない。わが妹でありながら、兄から見ても、その上品さには敬意を表するほどである。すでに高校生になっている早紀だったが、中学時代から大人の雰囲気を醸し出していたこともあって、成長がとどまるところを知らないように思えてならなかった。
「ピアノを弾きたくなりますわね」
早紀は、英才教育の一環で、ピアノを習っていた。
他にもお花やお茶も習っていたが、現在も続けているのはお花だけだった。お茶は小学生の頃まで、ピアノは中学二年生までと、習い事を一つにしたのは、勉学に励むためだった。
ただ、趣味としてピアノは続けていた。習い事ではなく、趣味として奏でる早紀の指から繰り出されるピアノの音色は、兄の健太から見ても、素晴らしいものだった。
元々健太がクラシックを好きになったのも、妹の弾くピアノの音に魅了されたのが最初だったのだが、このことは誰にも言っていない。口にするのが、どこかくすぐったい気がしていた。