二度目に刺される
もし、早紀に近づくことがあるとすれば、それは健太に対しての恨みからであって、早紀への思いは二の次である。そんな自分の浅ましさに、一度早紀への気持ちを打ち消そうとした。
それは、同じ恨みを晴らすとしても、早紀をその手段には使いたくないという思いである。
――人を好きになるというのは、そんな気持ちからではないはずだ――
と思い、早紀を諦めようとしたところへ、ちょうど診察に向かおうとした坂本と、表の散歩から帰ってきた早紀とはすれ違ったのだ。
早紀は車いすの痛々しい姿だった。後ろを担当看護婦に押されて、病院の庭を散歩していた。
これはリハビリを兼ねた精神的な休息で、毎日三回は散歩するようにしていたのだ。
医者が立てた療養計画の中に入っていたのだが、一日三回の散歩は、早紀の楽しみの一つだったのだ。
「最近は、お兄さんもなかなか来てくれなくなりましたね」
と、看護婦は心配していたが、まだまだ、玲子との修復を考えていた時期だったので、仕方のないことではあった。
しかし、早紀が寂しく思っていた事実であり、ちょうどそんな時、健太が以前、
「彼は親友の坂本君」
と言って紹介してくれた人が目の前にいたので、嬉しくなったのも当然だった。
「坂本さん? 坂本さんですよね?」
坂本は、早紀に気づいていたが、自分の気配をなるべく消して通りすがろうと思っていたところへ唐突に声を掛けられ、ドキッとしてしまった。
「あ、ええ、坂本ですが」
「私、梶谷健太の妹の早紀です。一度、兄と一緒に家に遊びに来られた時、ご紹介いただきました」
あの時は、健太の家の豪邸に驚いて、何もかもが素晴らしく見えた時だった。その時から坂本は一目惚れしたのだが、半分は、豪邸に見とれた気分で見た彼女だったので、見誤ったかも知れないと思っていた。しかし、その後、彼女は覚えていないようだが、街で健太と一緒の時に一度会っていた。その時に坂本は最初の一目惚れにウソはなかったことを再認識したのだ。
その時、坂本は声を掛けることをしなかった。声を掛けていればよかったと思ったが後の祭りだった。その時に声を掛けることができなかったことで、それ以降、街で見かけても、声を掛ける勇気はなかった。
――そんな相手に限って、街でよく見かけるんだよな――
坂本という男は、相手が男性であれば、自分を目立つようにしようと思い、意見をハッキリと言ったりするのだが、相手が女性だと、なかなかそうもいかない。声を掛ける勇気が持てないのは、子供の頃の記憶が邪魔していたからで、子供の頃に受けたトラウマが今も引っかかっていたのだ。
あれは、小学生の頃だっただろうか。一人で虫を取りに近所の森の中に入った時のことだった。森といっても、それほど大きな森ではなく、神社の裏にある小規模な森で、いつもは友達と出かけることが多かったが、一人で出かけることもあった。
そこで一人の女の子が中学生くらいの男性に森の奥に連れて行かれていた。その様子が異様だったことは子供の坂本にも分かっていて、その子がこれからどうなってしまうのか、興味があったのだ。
二人はまさか坂本がつけてきているなど、想像もしていなかっただろう。今から思えば男の方は、これからの行動に興奮状態になっていて、まったくまわりのことを気にしていなかったわけではないだろうが、それ以上に興奮状態は尋常ではなかっただろう。
そういう意味では女の子の方がむしろまわりを気にしていたのかも知れないが、そんな感情を与えないほど強引に、男は女の子を蹂躙していた。
女の子を大きな木に押さえつけて、今でいう「壁ドン」のような状態から、女の子を動けないようにして、恥辱の限りを尽くしていた。
――子供のくせにそこまで――
と思うほどの辱めを与えていたのだろうが、坂本は女の子のパンツが膝のあたりまで下ろされたのを見たところで、
――これ以上、見るに堪えない――
と思い、その場を後にした。
しかし、気になって仕方がなかったのは、女の子を可哀そうだと感じたからなのか、それとも、その後どうなったのか見てみたいという最低の好奇心なのか、分からなかったが、そのまま帰ってしまうことがどうしてもできずに、元の場所に戻った。
そこには女の子一人が取り残されていて、パンツを下ろされたままの姿で、放り出されていたのを見つけた。
本当は、こっそりと覗くつもりだったのだが、その様子があまりにも酷い状態だったので、自分の姿を消すことを忘れてしまっていた。さすがに女の子も気づいたようで、
「見ないで」
と、大声で叫ばれた。
坂本は、その声に過敏に反応し、
「ごめんなさい」
と言って、走ってその場を立ち去った。
――とんでもないものを見てしまった――
その思いは、自分が見たいと思ったことから生じたことであり、いまさらどうしようもないことだった。
だが、頭の中では後悔とは違う意味で、原因が何だったのかを究明しようと動いていた。
――異様な雰囲気を感じたのは、ここまでとは思わなかったが、自分にも敏感に感じる何かがあったということなのか? もし、そうであるなら、それを確かめたくて仕方がないと思ったのは、好奇心からに違いないが、好奇心を抑えることは本当にできなかったのだろうか?
いろいろな思いが頭を巡ったが、結局はトラウマとして残ってしまったのは、
――相手が知られたくないと思うことを、どれほど自分が見極めることができるかということだ――
ということが解決しないと、女の子を意識してはいけないという思いだった。
早紀のことを気にするようになるまで、気になる女の子がいなかったわけではない。しかし、それは中学時代や高校時代で、お互いに成長期ということもあって、特に女性は、男性を必要以上に意識してしまって、まるであの時の、
「見ないで」
と言っていた女の子の感情に似たものを感じさせた。
しかも、思春期の女の子たちからは、微妙な匂いを感じた。
決していい匂いという感覚ではなかったのだが、興奮させられる匂いには違いない。
自分が成長期だから感じたのか、相手が成長期なので、発散させたのか、それとも、どちらもが噛み合って、感じるようになったのかのどれかであろう。
「女性に対して、興奮するような匂いを感じる」
などということを口にするやつは一人もいなかった。
――俺だけなんだろうな――
と思っていた。
その思いを証明するように、数か月もすると、女性に匂いを感じることはなくなっていった。
――やはり思春期特有のもので、自分だけが感じていたわけではなく、何も話さなかったのは、暗黙の了解だったんだろうな――
と思った。
だが、その匂いを何年かして思い出す相手に出会うなど、高校時代の坂本は想像もしていなかった。それが早紀だったのだ。
早紀には、甘い香りが発散されていることを知っていたのは、兄の健太と坂本だけだった。どうやら、早紀の醸し出す香りは、無意識のうちに気になる男性が現れた時、内に籠っている匂いが表に発散させられるものなのかも知れない。
ということは、早紀も坂本のことを気にしていたのだろう。