二度目に刺される
早紀の記憶の欠落が、三か月ほどだったと感じたのは、健太の中でいきなりだと思っていたことが、繋がるようになったからだ。玲子と付き合いだした時の気持ちの動きを思い出すことができるようになったことで、
――早紀も欠落した記憶が戻ってきたのではないか?
と思い、早紀に聞いてみると、欠落していた部分の記憶が繋がっていたようだ。
「お兄ちゃん、思い出したみたい」
と口では言っていたが、本心は、
――記憶が欠落していたなんて、私の意識にはないのにな――
と感じているに違いない。
なぜかというと、同じ思いを自分も感じているからだった。欠落していたという事実は覚えているし、どこが欠落していたのかも覚えている。しかし、繋がってしまうと、
――いきなり――
と感じていたことがまるでウソのようにしか思えないのだ。
「大丈夫かい?」
健太は、自分の身に起こっていることが、形は微妙に違っているが、早紀の中でも起こっているように思えてならなかったのだ。
そんな思いがあったこともあって、健太は早紀が事故に遭ったあの日、そして、偶然なのか、自分が立ちくらみを起こしたあの日から、
「変えてはいけないもの」
が存在するということを感じていた。
本当は変えないといけないと思っていることこそ、その存在なのではないかと考えると、一番最初に頭に浮かんだのが、携帯の着信音だったのだ。
「着信音を変えるとしたら、早紀の欠落した記憶が戻ってからにしよう」
と、早紀にだけは言っていた。
だから、早紀は兄の携帯の着信音が変わっていないことに何も感じなかったのだ。
ただ、早紀もさすがに、自分が感じていることを、形を変えて同じように兄の身にも起こっていることを知らなかった。知っていたからどうなるというわけではないが、ただでさえ交通事故の後で、神経がデリケートになっているところに、余計な気を遣わせることはないと思った健太は、何も言わなかった。
幸いに、健太のことは早紀にしか、早紀のことは健太にしか分からない。もし、他の人が知っているとしても、それは表面上の二人しか見ていないからだ。二人の間には引き合うものがあるが、その引き合うもののまわりに他の人に知られないようにするための膜が張られていることに、誰も気づくはずはなかった。健太には分かっていたが、早紀には分かっていなかったに違いない。
健太は着信音を変えた頃、玲子とは完全に冷え切っていた。
健太は最初から玲子と別れても、自分は別にショックを受けないと思っていたが、そんな健太を見て玲子は、
――この人にはついていけない――
と思うようになっていた。
そのことにいつ一番最初に感じたのかというと、
――美術館で膝枕をした時だわ――
と思っていた。
本当なら、膝枕をしてほしいなどという話を男性がしてくれば、
「これでいよいよ二人は先を見据えたお付き合いができる関係になったんだ」
と感じるであろう。
しかし、あの時玲子の膝の上に置かれた健太の頭はやけに軽かった。明らかに、健太が遠慮して頭を預けてきていたのだ。
それなのに、自分から膝枕をしてほしいなどというのは、矛盾している。玲子は最初に頭を感じた時に、違和感がいっぱいだったのだ。
しかし、健太の表情は、感無量の表情をしていた。完全に頭を預けている気持ちになっている表情である。
――どうして、そんな顔ができるの?
玲子は不思議で仕方がなかった。
そもそも、どうして膝枕なのか分からない。他の人ならいきなり膝枕は言ってこないだろう。
――それなのに――
玲子は、彼の立ちくらみの瞬間を思い出していた。
目の前で白目を剥いて、いきなりその場にひれ伏して、そのまま倒れたのだ。
「大丈夫?」
叫んでもすぐには返事がなかった。
「誰か、救急車」
と言いかけた瞬間、健太は意識を取り戻し、
「救急車はいい」
と言った。
「でも……」
というと、
「いいんだ」
と、力のこもった声で彼は答えた。
確かに救急車を呼ぶほどではなかったが、結果論として、その時救急車を呼んでいれば、消防署には救急車はいなかったことになり、早紀の搬送が遅れていたかも知れない。
――健太さんは知っていたのかしら?
と玲子は思ったが、それ以上考えることは、踏み入ってはいけない領域に踏み込むようで怖い気がしたのだった。
それからの健太の行動は、玲子の想像を超えていた。玲子自身、自分の発想は独特なものだと思っていたのもあって、彼氏に対しての要望も、少し凝り固まったところがあると思っていた。
しかし、そんな玲子だったが、妹が交通事故に遭い、自分も同じ日に立ちくらみに遭ったその日から、明らかに健太に対しての目は変わったのだ。
立ちくらみに遭ったその日だけでも、玲子にとっての想定外の出来事がいくつもあった。もちろん、考えすぎの部分もあったことだろう。
だが、それが玲子の他の人と違うところで、自分独特の発想だと思っていた。そして玲子の発想は、自分に対して、
「もう、これ以上の接近は、健太とはない」
と告げているように思えてならなかった。
しかし、玲子の中には、もう一人、そんな自分に対して反発したい自分も存在した。どちらかというと、否定的な性格の自分に対し、相手に対して温和な態度を取りたい自分である。その時の心の葛藤は表に見えないように、心の中で行われるので、まわりからは、やけに暗く見えていた。
これは玲子に限ったことではなく、普段明るい人が暗く見える時というのは、躁鬱症の鬱状態でなければ、自分の心の中の葛藤から、表に気持ちを出すことができず、自分の中を見つめることしかできないことで、内に籠ってしまっている場合が多いのではないかと、考える人もいることだろう。
健太は、そんな玲子の心の葛藤が分からなかった。
健太は健太で、自分が着信音に気づかなかったことで、妹に対して感じる罪悪感が取れることはないと思ってしまい、少しでも、妹と一緒にいてあげることだけを考えるようになっていた。いくら彼女とはいえ、そんな状態で、玲子のことを考える余裕など、なかったのである。
玲子の方は、葛藤しながらでも、まわりを見ることができるという意味で、まだ健太よりマシかも知れない。
健太は自分の心の中で、出口を探して堂々巡りを繰り返していた。
しかし、健太が今のままでは、どうあがいても、出口から表に出ることはできない。なぜなら、健太は出口が見えているからだ。
健太の見えるその先には、出口があった。
出口というのは、遠くに見える小さな光なのだが、小さな光を出口として認識できない理由は、
――光を光として見ることができない――
そんな状態にいるからだ。
どうしてそんな状態にいるのかというと、健太は心の中で、
――僕は今のままでいいんだ――
という思いをその中心に持っていたからだ
「妹を助けて生きて行かなければいけない」
と考えた時点で、健太は、自分を殺すことを一番最初に考えた。
自分を表に出してしまっては、まず自分を保身してしまうことを分かっていた。それは自分が弱いと思っているからだ。