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二度目に刺される

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 そのことと直接の関係があったのかどうか分からないが、早紀は短い間、記憶が欠落していた。欠落していた記憶は実に限られたものであって、そのことを知っていたのは、健太だけだった。
 早紀が記憶の欠落があった時期というのは、三か月ほどのことだった。しかも、その欠落していた内容は、そのすべてが、健太と二人しか知らないことに限られていたのだ。だから、他の人は誰も早紀の記憶が欠落していたなどという事実を知らない。健太もすぐには気づいたわけではなく、早紀と一緒にいて、微妙な違和感が襲ってくるのに気づいたことで、何かの虫の知らせでもあったのか、子供の頃の二人しか知らないような話をしてみると、早紀はすっかりその内容を忘れていたのである。
 いや、忘れていたというよりも、最初から記憶されていなかったようであった。
――記憶喪失なのか?
 と思うほど、記憶にないことへの違和感が、早紀の態度から感じられなかった。
 健太にとって、早紀との子供の頃の記憶は神聖なもので、他のどんな記憶よりも新鮮だと思っていた。もちろん、それは早紀も同じことで、早紀が覚えていなかった記憶の話も、去年、思い出したように話をして、盛り上がったのを覚えていた。それをまったく覚えていないというのは、信じられることではなかった。
「目の前にいるのは、妹の早紀ではない」
 と言われた方が、よほどマシだと思ったほどだ。
 あれは、健太が高校生になってから少ししてからのことだったから、早紀はまだ中学生になった頃くらいだったのではないだろうか。近くを流れる大きな川で、毎年恒例の花火大会が行われた時だった。
 毎年、場所の確保は執事が手配してくれていて、車の中から見ることのできる場所をキープしてくれていた。
 本当のベストポジションではなかったが、それでも、人ごみに紛れて苦痛の中見ることがない分、楽ではあった。
 本当は高校生や中学生であれば、友達と仲間で行くのが楽しいのだろうが、一緒に行くような友達が二人にはいなかった。いつも兄妹一緒だったからだ。
 健太は、そんな人混みが大嫌いだった。うるさいだけで、何がそんなに楽しいというのだろう? 会話を聞いていても低俗な話ばかりで、どうしても冷めた目でしか見ることができなかった。
 実際に冷めた目で見ていると、いかに自分たちが狭い範囲で好きなことを言っているだけなのか分かっていないことがハッキリと分かる。
――あんな連中と、僕とは違うんだ――
 この思いは妹の早紀に対してもあった。
――僕があんな低俗な連中から、妹を守るんだ――
 と思っていたからだ。
 早紀を見ていると、健太ほど、まわりに対して偏った目で見ているわけではないが、少なくとも冷めた目で見ていることは確かだった。
――早紀の目には、何が見えているんだろう?
 と感じずにはいられなかったが、どんな時でも早紀の表情と目は、まっすぐで、疑念を感じさせるところは一つもなかった。
 それこそ、「お嬢さま」と言われるにふさわしい女性だと信じて疑わなかった。
 その時の花火大会で、早紀は初めて、
「もう少し近くで見てみたい」
 と言い出した。
 執事は最初は反対したが、二人きりではいけないので、もう一人の執事と二人が一緒についていくことを条件に、渋々であったが、賛成してくれた。
 車を河川敷の定位置に置いて、少しだけ河原に近づいた。その場所は、他の人が入ってくる場所ではなかったので、人ごみに揉まれることはなかった。ただ、スタッフが忙しく立ち回っているところであったので、邪魔にならないようにしないといけないし、その中で二人を警備しなければならなかった。
 健太は、そんなことまでは分からなかったので、妹と二人で夜空を見上げて楽しんでいた。
 楽しい時間はあっという間に過ぎると、早紀はその時、自分の中で何かが弾けたような気がしたようだ。
 普段は、早紀の方が兄の健太よりもしっかりしていた。冷静さという意味では健太はおろか、早紀の右に出る人を健太は知らなかった。もちろんそれは大人を含めてのことで、妹を守らなければいけないという思いの裏に、妹に対しての敬愛の念があったことを健太は自覚していた。
 ただ、その日から早紀は明らかに変わった。
 それまでは趣味らしいものもなく、習い事だけをこなしている毎日だったが、詩に興味を持ち始めたのはその頃だったように思う。
「詩を書いている時って、私は一番自分らしいって思うのよ。こんなことを感じたのは初めてだわ」
 記憶の欠落が見られたのは、このセリフにある詩を書き始めたきっかけだった。
 花火を見に行ったことは覚えているし、中学時代、詩に興味を持って書き始めたのも思えている。しかし、どうして詩を書きたくなったのかということは覚えていなかった。健太も、妹が詩を書きたくなった理由に、前日の花火大会が影響しているのは分かっていたが、書こうと思った本当の理由までは知らなかった。知っているのは早紀一人だったのだ。
 しかも、早紀が詩を書くようになったのを皆が知ったのは、早紀の詩が新聞のコンクールで入選したからだった。それまでは健太だけが詩を書いているのを知っていて、早紀が新聞コンクールに応募したことさえ、健太は知らなかったのだ。
 早紀はコンクールで入選したのは覚えていたが、どうして応募を思い立ったのかということも忘れてしまっている。
 早紀の記憶が曖昧なのは、何かをした、あるいは始めたという記憶はあるのに、そのきっかけになる心の変化を覚えていないかったのだ。
 早紀が何かをするためのきっかけになることが、形になって現れたのを分かっているのは、花火大会の次の日から、詩を書こうと思った時だけだった。それ以外の時は、いつも突然で、心の変化だけで行動に移るので、さすがの健太も、掴めないところがあった。
「お兄ちゃん、私が何を考えているか、分からないでしょう?」
 といつも言っていた。
「ああ、いつも早紀は突然何かを始めるから、心の準備もできていない。困るんだよ、それじゃあ」
 と言って、軽く頭を撫でたりしたが、早紀に悪気があるわけでも、健太に、相手を叱るという思いがあるわけでもない。まるでじゃれ合っているだけのようだ。
 それが兄妹の絆といえば、それまでなのだろう。
――二人のことは、他の誰にも分からない――
 という思いが、健太にいつしか、
――僕には早紀だけがいればいいんだ――
 という気持ちにさせた。
 だが、いきなり健太も何の前兆もなく、彼女ができたのだ。
 玲子と付き合うようになった時、それなりに順序立てての付き合い始めだったはずなのに、後から思うと、いきなりだったように思えて仕方がない。
 途中の経過は覚えていて、健太の中で、ワクワクしていた気持ちがよみがえってくるのだが、本当にその時に感じたものなのか、分からなかった。
――どこか微妙に違っているような気がする――
 その思いは、早紀に記憶の欠落を感じた時、同時に自分にも、
――記憶の欠落があるのではないか?
 と無意識にだが思ったことで、感じたことだった。
作品名:二度目に刺される 作家名:森本晃次