二度目に刺される
夕方、立ちくらみ起こしたことは電話で話していたが、あまりの状況の変化に、そのことはすでに覚えていないかも知れない。
それならそれでよかった。妹のことに加えて自分のことまで余計な心配を掛けたくなかったからだ。ただ、父親は母親よりも冷静なようで、
「なるべく栄養のあるものを摂った方がいいぞ」
と、普段はあまり口出ししない父親が口を開いて忠告してくれた。
「うん、分かった。ありがとう」
と言って、今度は母親の心配そうな顔を見ていた。
やはり冷静になっているであろう父親が、またしても口を開いた。
「中にいるのは刑事さんなんだ。どうやら、早紀はひき逃げにあったらしい。警察の方としても、早紀の意識が戻るのを待っていたようで、それで事情を聴いているんだ」
なるほど、そういうことであれば理屈も分かる。
妹の早紀は、結構慎重派なので、普通に交通事故に遭うというのもおかしな話だと思った。
車同士の衝突事故に巻き込まれるか、あるいは、飲酒や酒気帯び、最近であれば、携帯やスマホを弄りながら運転していた運転手の運転ミスか、そのどれかが原因ではないかと思えた。
ひき逃げということは、やはりそれだけ運転していた本人も、捕まると困る何かがあったに違いない。同情の余地のない相手だが、警察の捜査で捕まえてくれればいいと思った。もし、警察が捕まえられなければ、絢太は車を運転する人皆を憎むようになるかも知れない。
今はアルバイトをして、免許取得のための教習所代を稼いでいる途中だったが、この事故の健太に対しての精神的な影響はかなり大きなものだった。刑事が犯人を捕まえられるかどうか、大きな問題なのだ。
「お疲れのようですので、今日はこの辺りにいたします。もし、また何かありましたらお伺いします。そして、梶谷さんの方からも、何か思い出されましたら、遠慮なく私どもの方にご連絡ください。それではお大事にしてくださいね」
そういって、刑事は一通りの聴取を終えたのだろう。部屋を後にした。その様子を見た健太は、
「犯人逮捕の方、どうぞよろしくお願いいたします。僕は、犯人が許せません」
というと、刑事は笑顔で車いすの健太の型を軽く叩いて、
「お兄さんですね。お気持ちはよく分かります。ここから先は警察にお任せください」
「頼みましたよ」
「かしこまりました。それでは」
と言って、二人の刑事は帰って行った。今の段階では、あの二人に任せておくしかないのだ。
妹の身体は、思っていたよりも回復が早かった。それよりも妹によってはリハビリの方がきつかったようで、
「リハビリって、甘く見ていたけど、結構大変なのよね」
と、口ではそう言いながらも、汗を掻くことにあまり抵抗はないようで、見た目のきつさよりも、本人にとってはそうでもなかったのかも知れない。
数か月ですっかりよくなった妹は、後遺症も残っておらず、医者からも、
「もう安心ですね」
というお墨付きをもらっていた。
「あんた、本当に大丈夫なの?」
という母親の心配をよそに、妹は元気に回復していた。
母親の心配については、健太にはその理由は分かっていた。交通事故に遭った時の状況はほとんど分かっていないからだ。警察から犯人が逮捕されたという話も聞かないし、何よりも、目撃者がほとんどいないところでの事故だったのだ。車の急ブレーキの音と、妹の悲鳴で駆け付けたのが最初の発見で、現場に第一発見者が駆け付けた時には、すでに車は立ち去っていて、倒れている妹が取り残されただけだった。まわりには血痕が飛び散っており、悲惨な状態だったに違いない。
警察の人に捜査をくれぐれもお願いしたが、実際の状況を後で聞いたところでは、
――これでは、真犯人を見つけ出すのは、ほぼ困難だ――
としか思えない状況で、健太も家族も状況の好転には期待していなかった。
健太は、まわりの人のことよりも、自分のことが問題だと思っていた。
――あの時、立ちくらみを起こしてしまったことはしょうがないとしても、携帯の着信音に気づかなかったのは、僕の不覚だった――
まさか、玲子が同じ着信音にしていたとは思わなかったが、それよりも、電子音の特徴に気づかなかったことが問題だったのだ。
「電子音というのは、どこから鳴っているのか分かりにくい特性があるんですよ。だから、同時に同じ音が鳴り始めると、一緒に鳴っているという意識はなく、ステレオ効果になっていることに対し、別に疑問を持たなくなる。それが問題なんじゃないですか?」
と、その時の状況を話した人にそう言われた。
「携帯音を別にしないといけないですね」
「そうですね」
そう言って、健太は携帯の着信音を別のものに変えた。ただ、スマホにする気にはなれなかったので、ガラケーのままで着信音を変えた。
着信音は、かつて妹とカラオケに行って歌ったことのある曲だった。それは、健太が高校時代に流行ったバラードだった。
「携帯の着信音、変えたのね」
玲子は、静かにそう言った。
「ああ、妹が好きだったんだ。この曲」
「そう。妹さんが」
「うん」
その頃には、妹が交通事故に遭った時のような感情が、玲子との間にはなくなっていた。今から比べれば、その頃は熱愛だったと言ってもいい。今は会うことも少なくなってしまい、冷え切った関係と言ってもいいだろう。
早紀が交通事故に遭った時から、お互いにぎこちなくなってはいた。
玲子は玲子なりに責任を感じていたようだ。それは着信音が同じことで、健太が電話に気づかなかったことを分かっていたからだ。
しかし、健太はそのことに触れようとはしなかった。もちろん、玲子が悪いわけではないので、健太がそのことで玲子を責めるというのは筋違いなことなのだが、玲子としてみれば、何も言われないのも、息苦しさを感じていた。
健太は何かというと、
「妹が心配だから」
と言って、二人で会っていても、妹のことを心配していた。
付き合い始めから分かっていたことだが、ここまで妹に肩入れしている健太を見るのが次第に疎ましく感じられるようになっていたのだ。
健太の方も、玲子と一緒にいながらでも妹のことを気にしているのは、玲子に悪いという意識はあった。しかし、それでも妹のことを気にしないではいられない自分の性格が健太には溜まらなく自己嫌悪に陥るところだった。
――俺はどうして、こんなに妹のことが気になるのだろう?
医者からも、
「回復は順調です」
と聞かされているのに、この心配症は妹に関して異常であることは分かっていた。
まわりの反応も芳しくなかった。
「あいつは、妹に対して異常なほど意識過剰だ」
と言われていたが、事情を知っている人は、健太に同情的だった。
「携帯の着信に気が付かなかったことが、あいつの負い目になっているのかも知れないな」
しかし、その反面、着信音をそれからも変えなかったことに対して、まわりの人は不思議に思っていた。一番最初に対応すべきことなのに、なぜかしばらくは普通の着信音だった。着信音の特性に気づいていないわけはないはずなのに、どうしてなのか、誰にも健太の心の奥が分からなかった。