二度目に刺される
と思いながら、何かモヤモヤしたものが頭の中にあり、それが晴れるのを待っている自分がいるのに気が付いた。
――これだ――
と思って、目からうろこが落ちたかのように、絵を描くことができるきっかけをつかんだ瞬間だった。
だが、この時の出来事は、絵を描くことができるようになっただけではなかった。実はこの時に感じたことがきっかけで、骨董の世界を垣間見たような気がしたのであった。
そんな大事なきっかけがあった美術鑑賞だったのに、すっかり美術館にはご無沙汰していた。どうしても、
――我流の自分が余計な影響を受けてしまうのではないか?
と考えたからで、今回玲子と美術館に立ち寄る前がいつだったかというと、記憶にないほど前のことだった。
――ひょっとすると、大切なきっかけを与えてくれたあの時以来なのかも知れない――
と感じたほどだった。
――そういえば、早紀が興味深いことを言っていたな――
というのを思い出した。
詩を書いている早紀は、
「書きたいものを書くんじゃなくて、書けるものを書く」
というような話をしていた。
それは、健太が絵を描くのも同じで、もし、描きたいものがあって、それを目標に描いているのであれば、美術館に展示されている絵は参考になるかも知れない。しかし、健太は描きたいものがあるわけではなく、描けるものを描いているという妹と同じような感じで絵を描いていた。
早紀には、
「お兄ちゃんも同じなんだよ」
と言えなかったが、早紀が言わなければ、健太の方から、
「お兄ちゃんの描いている絵は、描きたいものがあるから描いているわけではなく、描けるものがあるからそれを描いているだけなんだ」
と言っているだろう。
ただ、その続きとして、
「絵を描くということが新鮮で、気持ちに余裕を与えてくれるから、それが好きなんだ」
というに違いない。
そういう意味では、本当に早紀が言っていた、
「書けるものを書く」
という言葉と同じなのか、疑問であった。
健太が美術館に立ち寄らなくなったのは、他の人の作品を見て、自分の作品に「迷い」が生じるのが怖かった。
描きたいものを描いているのであれば、そんな気持ちにはならないかも知れない。しかし、少なくとも描きたいものではないものを描いているのだから、まわりの影響を受けないとも限らない。特に「芸術家」として名の売れた人たちの作品だということを先入観として埋め込まれて見てしまうと、自分の作品に劣等感を感じるのは必至ではないだろうか。健太はそのことが怖かったのである。
健太も最初は、絵を描くための入門書や、ハウツー本を買ってきて、読んだりしていた。中には参考になることもあったが、どうしても客観的に見てしまい、それだけ狭く感じられた。
――どうしてその手法を用いなければいけないんだ?
と疑問に感じることも多かった。
画家の中には、そんな手法など関係なく、自分の感性で描いている人もいるはずだ。特に芸術家というのは個性が重要で、判で押したような標準的な話は、どこか筋違いに感じられた。
「芸術は爆発だ」
と言った芸術家もいたが、まさにその通りだ。
一つの型に押し込められると、爆発してしまう。そんな迫力がなければ、画家としてやっていけないだろう。
入門編はあくまでも入門編で、学校で習う基本を書いているだけであろう。そう思えば参考程度に考えて、騙されたと思って本の通りにやってみると、意外と描けなかった人は描けるようになるのかも知れない。
健太は、どうにも考えが飛躍しすぎるところがある。飛躍しすぎて疎まれるところもあるが、同じように思っている人たちからすれば、自分たちは控えめなのに対し、真っ向から言いたいことを言う姿勢の健太は、頼もしく見えることだろう。
ただ、それも内輪のことで、絵に興味のない人に言っても、右から左で聞き流されるに違いない。
健太はそれでよかった。サークルに入らずとも、絵を描く同人に知り合いが多かったのも、そのあたりが原因なのかも知れない。
そんな健太の一面を知っている人はごく少数だが、少なくとも妹の早紀は、兄を見ていて、頼もしく思えているようだった。
健太は美術館の絵を見ながら、どうして久しぶりになったのか、考えながら回っていると、時間が経つのが早かった。実際には一時間近くも中にいたのに、気分的には十五分程度しかいなかったように思えた。玲子は健太が一生懸命に見ていたからだと思っただろう。しかし、当の本人は、久しぶりに来たことから自分のことを考えていたなど、まさか思いもしないに違いない。
表に出ると、日差しはさらに強くなっていて、意識が朦朧としてくるのを感じた。
「プルルルル、プルルルル……」
電話の呼び出し音が鳴っているのに気が付いた。
――あれ? 僕の携帯かな?
と感じたが、それより一寸早く、玲子が自分のカバンからスマホを取り出して、電話を取った。
「もしもし」
と、玲子は相手と話し始めた。
話が込み入りそうなので、玲子は少し離れて電話をしていたが、その時の健太は、すでに気を失いかけていた。
――耳鳴りがする――
電話は玲子が出たので、呼び出し音がしているはずはないのだが、耳の奥に残っているようで、それが次第に消え入りそうになってくるのを感じた。
目の前が真っ暗になってくる。目を瞑ろうとすると、毛細血管がまるでクモの巣のように目の前に張り巡らされていた。
――僕はこのまま気を失ってしまうんだろうか?
と感じた時、膝から崩れ落ちるのを感じた。
あとは、まわりの声が聞こえてきた。それは慌てふためいていて、尋常ではなかった。しかも、自分の顔に覆いかぶさるように数人の顔が見えていた。
――やめてくれ。このままならパニックになってしまう――
そう思った瞬間、完全に意識がなくなってしまったようだ。気が付けば、さっきまでいた美術館のソファーの上に寝かされていた。さっきまで見えていた人たちの顔はなくなっていたので、まるで夢でも見ていたかのように思えたのだ。
「僕はどうしたんだろう?」
と、頭に濡れタオルが置かれていたので、起き上がろうとした時、スルリと滑り落ちそうになったのを、かろうじて手で捕まえた。
「大丈夫? どうやら、立ちくらみを起こしたようなの。この暑さで参ってしまっていたのね」
そう言って、ソファーの横で見守っていてくれた玲子がいるのを感じた。
「君が介抱してくれたんだね? ありがとう」
と礼をいうと、玲子は恐縮したように、
「いえいえ、まわりにいた人が気が付いてくれて、皆でここに運んでくれたのよ。誰かが救急車を呼ぼうと言っていただけど、あなたが必死に、呼ばなくていいように言ったので、とりあえずここで休ませてもらうようにしたの。他の皆さんは、ここまであなたを運んできて、少ししたら顔色がよくなってきたのを見て、皆それぞれ安心して行ってしまったのよ。でもありがたいものよ。私一人だったら、あなたをここまで運べないから、救急車を呼ぶしかないものね」
と言っていた。
「そうなんだ、本当にありがとう。僕もよく分かっていないんだけどね」
とニッコリ笑うと、
「笑顔が出るようなら安心だわ」
と言ってくれた。