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二度目に刺される

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 分かっているくせにどうすることもできない自分に苛立ちを感じ、まるで夕凪の中をさまよっているような気がしてくるのを、自覚していた。
 大学時代は、自分の甘い考えや、失恋などの、自分では納得できないことが生じると、その都度夕凪を意識し、最後には夕凪のせいにしていた健太が、夕凪の時間に疲れを一気に感じるようになったのも、その報いなのかも知れない。そのせいで食欲の低下にも繋がっているのであって、夏はほとんど毎日夕凪を感じるのだから、食欲がないのも当然だったのだ。
 そこに持って来ての今年のこの暑さ。猛暑を通り越して酷暑という言葉を、
「まったくその通りだ」
 と言わんばかりである。
「猛」と「酷」、どちらかが辛いのか、なかなか事例がなければ分からない。それは数の単位であったり、容量の単位にも言えることで、それだけ今まで馴染みのなかったものが、最近では恒例化してきたということであろう。
 以前はお風呂に入るのも、浴槽に浸からないと我慢できなかったが、今は浴槽に浸かるのが辛いほど、身体に熱を持っている気がする。シャワーで済ませる毎日が続き、
――浴槽に浸かりたくなった時が、酷暑を抜ける時なのかも知れないな――
 実際の体調もそれに比例し、食欲も少しは増してくるのではないかと思っている。
――そういえば、酷暑というのを体験したのはいつが最初だったのだろう?
 何十年か前に酷暑というのが話題になってから、数年おきに襲ってくるという酷暑。地球温暖化の影響なのかも知れないが、
「冬と夏のどっちがいい?」
 と聞かれた時、
「冬の方がいい」
 と答える健太にとって、酷暑というのは地獄以外の何物でもなかった。
 玲子と知り合ってからの健太は、それまでの孤独な時と違い、季節の変わり目や、身体に影響を与える変化などには敏感になっていた。したがって、数年前に感じた酷暑の時よりも、今年の方が辛く感じられる。それでも、玲子の前では痩せ我慢していたが、そんな様子は相手にも伝わるもので、
「暑い時は我慢しなくてもいいんですよ」
 と言ってくれた。
 しかし、それは同時に、自分が我慢するということは、相手にも同様の我慢を強いていることに気づかなかっただけだ。そんな簡単にことに気づかないなんて、信じられないことだったのだが、それを暑さのせいにしようとしたことで、余計に暑さが身に染みて感じられるようになってしまった。
 夏も八月になると後半である。
 七月はなかなか過ぎてくれなかったにも関わらず、八月の声を聞くと、そこからは結構早かった。あっという間に一週間が過ぎていて、街のあちこちで週末には小規模な祭りがあったりしている。
「昔はお盆を過ぎれば結構涼しくなったものなのにね。今は九月に入っても猛暑日が続いたりするでしょう?」
「そうだね。八月はただの通過点でしかないのかな?」
 そんな会話を早紀としたりしていた。
 朝からセミの声で起こされる毎日だった。部屋はずっと冷房を入れていて、窓は締め切っているのに、セミの声は響いている。
――夢を見ていても、聞こえていたのかも知れないな――
 と感じるほどで、
――セミの声で目が覚めたという夢を見ていたのかも知れない――
 と思った。
 やはり、締め切った部屋で冷房も入れている状態で聞こえてくるセミの声で目が覚めるなど、考えにくいことだった。セミの声で目が覚めたという夢を見ていると考えた方が、よほど理屈に合っているというものだ。
 その年の八月六日は土曜日だった。
 夏休みも半ばに入り、街に出ると、家族連れなどの群れの中に入り込んでしまい、人に酔ってしまうのも分かっていた。当然行楽地も同じで、こんな時は、映画でも見るのが一番いいのかも知れない。
 さすがに普段と比べて映画館も客は多かったが、満員というほどではない。クーラーも効いた中で映画を見ていると、表の暑さを忘れられそうで、健太は好きだった。昼頃から上映の映画を見て、軽く昼食を摂り、余った時間どうしようかと思っていると、
「美術館にでも行きませんか?」
 という玲子の誘いに、目を輝かせて、
「はい」
 と答えた健太だった。
 自分で絵を描くのと、美術館に芸術家の絵を見に行くのとは、健太の中では別次元のものだった。別にプロになりたいわけではなく、
「わが道を行く」
 という意識の強い絵画を趣味にしていたので、今までも美術館に近寄ることすらしなかった。
 したがって、デートの計画をする時、頭の片隅にも浮かばなかった。
 だからと言って、美術館に行くことに違和感があるわけではない。自分から率先して行こうとは思わないだけで、芸術家の絵を見るのは嫌いではなかった。
 ただ、自分の作品の参考にはしないというだけである。
――彼らとは、次元が違うんだ――
 と思っていたが、もし、自分と同じような考えを持っている人であれば、美術館には近づきたくないだろう。なぜなら、自分の作風に余計な影響を与えるからである。
 健太も、自分の作風に影響を与えることになると思う画家の絵は見たくないと思っている。しかし、自分の作品が我流で、基本的な考え方が違っているから影響を与えることはないと思っている。
 基本的な考え方として、「バランス感覚」と「遠近感」という発想に変わりはないのだが、それ以降の発想が違っていれば、健太は、
――基本的な考え方が違う――
 と認識していた。
 それは、相手の作品を見れば分かる。分かるようになったと言った方がいいかも知れない。
 これは最近会得したものだった。ただ、友達の作品に対しては百発百中で分かったのだが、他の人に通用するかは確証がない。しかしそれでも健太が、
――僕の中での才能――
 と感じていることが大切だった。
 その才能というのは、
――絵を見ただけで、最初、どこに筆を落としたか分かる――
 というものであった。
 中心部から描いたものなのか、端の方から描いたものなのか、分かってしまうのだ。
 他の人の作法は分からないが、健太の場合は、その時々で筆を落とす場所が違うということはなかった。
 もっとも、最初に絵を描くことができず、悩んでいた時、最初に描けるようになったきっかけは、
――筆を最初に落とす場所が確立されたからだ――
 と思っている。
 それまでは、同じ場所を何度も描こうとしても、途中で納得できずに諦めてみたり、描き上げても、最初に描いたものとまったく違っていたりと散々だった。
 違っていても一本筋が通っていれば、それでいいのだが、どうにも納得できるものではなかった。
――どこが違うんだろう?
 結構悩んだような気がした。
 しかし、それでも諦めなかったのは、
――あと一歩何かが分かれば、すべてが繋がるんだ――
 と思ったからだ。
 それが何なのか、最初は分からなかったが、それが最初に落とす筆だと感じたのは、何を隠そう、学校から美術鑑賞で見に行った芸術家の絵を見た時だった。
――俺なら、最初にここから始めるな――
 と、美術に興味も何もない連中が勝手なことを言いながら、芸術家の絵を見ていたその時の言葉だったのだが、
――何を勝手なこと言ってるんだ――
作品名:二度目に刺される 作家名:森本晃次