二度目に刺される
律儀と言えばそれまでだが、律儀などという言葉で簡単に言い表せるほどの兄妹の関係ではなかった。
――もし、私がいじめられっ子ではなかったら――
という思いが自分を自虐的な気持ちにして、一度自虐的になってしまうと果てしなく奈落の底を見てしまうことになるのだが、その歯止めをしてくれているのが、兄の存在だった。
兄の健太というのは、妹にとって、なくてはならない存在であることは、このことだけで十分だった。
早紀はその頃から喘息がひどくなっていた。
元々小児喘息として診察を受け、毎日薬を服用し、定期的に通院を余儀なくされていたので、なかなか友達と遊ぶ時間がなかった。そのことが苛めの標的になってしまったというのは、本当に気の毒なことだった。
そんな娘の身体を心配して、父が田舎に別荘を買ってくれた。その別荘には、一年のうちに数週間ほど滞在するのが恒例になっていて、それまで都会しか知らなかった兄妹には、センセーショナルな印象を与えた。
兄の健太としては、少し冷めた気分でもあった。家族にはその心境を知られないようにしていたが、決して田舎に遊びに来ることを喜んでいたわけではない。
田舎というと、自然に親しむにはいいが、不便を覚悟しなければいけないところがある。特に遊びたい時期の子供としては、田舎で数週間というのは、嬉しくはなかった。
テレビ番組でも、民放は二局くらいしか映らない。アニメの連続放送も、その時期には見ることができず、家を出る時に録画してこなければいけなかった。予約もその頃は大変で、結構面倒臭かった。元々文明の利器と呼ばれるものの操作は苦手で、しかも面倒臭がり屋だったので、かなりの苦労があった。
その時の印象があるのか、その反動なのか、骨董品に興味を持ち始めたのがその頃だったというのも、あながち関係がないわけでもない。
それでも妹の早紀が楽しみにしているのだから、嬉しく思ってあげなければいけない。
――妹は僕が守るんだ――
という気持ちになったのも、
――親とは別に自分は自分で――
という思いが、孤立してしまっていた自分の気持ちを、何とか踏みとどまらせているのかも知れない。
早紀の喘息は、田舎にいる時はいいのだが、都会に戻ると、少ししてまた再発してしまうことが多かった。
「せっかく田舎に行ったのに」
と、両親はガッカリしていたが、一番ガッカリしていたのは、健太ではないだろうか。
それでも、
――妹を守るのはこの僕だ――
という思いが強くなったことで、ガッカリしなくてもいいと自分に言い聞かせていたのだ。
都会に帰ってくると、妹の喘息は一か月ほどで、また出始める。医者に相談しても、
「療養は長い目で見なければ」
という程度で、特効薬的なものがなければ、とりあえずは難しいということだった。
その特効薬も研究はされているが、商品化にまでは、まだ少し時間が掛かるということだった。
それは仕方のないこととして、都会に戻ってきてからは、今までのように、毎日の投薬に、定期的な通院を余儀なくされることになるが、妹は別に苦にしているようではなさそうだった。
それが両親にとって救いではあったが、同時に妹に対しての負い目でもあった。その負い目があるため、どうしても妹には甘くなってしまう。それも仕方のないことで、英才教育のうちのいくつかは、辞めてしまっても構わないということになった。
妹の中で、本当に続けたいものだけを続ければよくなったことで、その分、通院と休息の時間に充てられることができるのだ。
通院の日は、学校を休んだ。
別に一日中病院にいなければいけないわけではないが、朝一番で診療してもらい、午前中には終わることで、その後は、運転手の人に、郊外に連れていってもらっていた。
海の時もあれば、山の時もある。妹が行きたいところがその目的地になったのだが、最初こそ海が多かったが、途中から、妹が見つけたという湖のほとりが多くなった。
これは健太も二年間ほど知らないことだったが、その湖のほとりには、妹が、
「お姉さま」
と慕う女の子がいた。
年齢的には健太と同じくらいだろうか。その女性は白い衣装が似合っていた。
つまり、妹にとって、以前公園で助けてくれたお姉さんの「代わり」のような感じで、すぐに仲良くなり、気心が知れるようになると、お屋敷に招待されることも多くなったという。
それは、自分たちの別荘を彷彿させるようなところで、彼女もそこで家族と離れて住んでいた。
もちろん、彼女のために、執事、家政婦はたくさんいるのだが、家族がいないことで、さぞや寂しいのかと思ったが、
「寂しくなんかありません。皆さん、よくしてくださいます」
と言って、笑っていた。
「でも、早紀様が来てくださる時は、本当に私もうきうきしてしまいますのよ。まるで本当の妹ができたようで、嬉しくて」
「そう言っていただけると嬉しいです。私も素敵なお姉さまができたようで、誇らしく思えるほどです」
「ありがとう」
そう言いながら、半日をお姉さんと過ごす一日は、早紀にとって、二、三日分にも匹敵するものだったに違いない。
「早紀さんは、ハチの一刺しという言葉をご存じですか?」
「聞いたことがあります。確か、ハチというのは、刺してしまうと、すぐに死んでしまうので、刺すという行為は命がけという意味だったんじゃないですか?」
「ええ、でも一度刺したからと言って死んでしまうハチというのは、限られた種類だけなんですよ。ハチにもいろいろ種類がある中で、ミツバチだけが、しかも、その中でも一部だけが死んでしまうことになるんです」
「そうなんですね。知りませんでした」
「そのハチの針というのは、食指が逆についているので、刺した後に抜けなくなってしまうらしいの。そのままにしておけば、結局は死んでしまうので、ハチは自分の身体を引き裂いて、針だけを残して、飛び去るんですよ。でも、何しろ身体半分がないようなものなので、すぐに死んでしまうのよ」
「なんて残酷な。そして因果なんでしょう?」
「そうよね。でも、毒針が残った方は、ハチがいなくても毒素はどんどん身体に入っているので、死に至るかどうか分からないけど、ハチの一刺しは十分に効果を発揮しているというわけ」
「やはり、因果なものですね」
「そうでしょう? 私はそれを聞いた時、自分も死ぬ時は、ただでは死にたくないなと思うようになったの。何か自分がこの世に存在したことを証拠として残しておきたいという気持ちですね」
「まるで今にも死ぬような言い方しないでくださいよ」
と苦笑いをすると、それに構わず、彼女は続けた。
「動物というのは、死期が近づくと、誰も知らないところにひっそりと身を隠すらしいわね。自分の死んだ後の姿を誰にも見せたくないという気持ちが強いと思うのよ」
と嘯いていた。
口調は穏やかだが、語句は強めな気がした。冗談や酔狂ではないようだ。それだけに早紀は苛立ちを覚え、興奮状態になった。
「そんなこと言わないでください。縁起でもないです。いくら私でも怒りますよ」
早紀も真面目に答えているというのが分かったのか、
「ごめんなさいね。私どうかしているんだわ」