次元を架ける天秤
「そうかも知れません。でも、そのことを確認する勇気は僕にはなかった。憔悴しきっている母の姿も、父の死の真相を探ろうとして必死になっている母の姿の両方とも知っているだけに、とても聞くことはできなかったんですよ。でも、母が仏壇の前で、父に調査結果を報告するのが日課になっていたみたいで、その声が聞こえてきたんですよ。僕が完全に眠っていると思ったんでしょうね。その時の母の声は、声のトーンを変えることもなく、恐ろしいほどの冷たさがあり、今思い出すだけでゾッとします」
「秋田君としても辛かっただろう?」
「ええ、そうですね。辛かったというより、その時の母は、僕が知っている母ではないような気がして、気持ち悪さがありましたね」
その思いは健一にも分かった。
母親が自分の知っている人ではないと感じたことは、今までにも何度かあったからだ。
「その時に、釧路という名前が何度か出てきたんですよ。僕はその名前がいつも引っかかっていたんですが、何しろプロジェクトのメンバーや研究内容に関しては、一切研究所でも語られていなかったので、実際に詳細を知っている人は、ごく一部の人だけだったようです」
「なるほど、今もその傾向は残っているけどね」
「きっとそれは、元々の研究所という雰囲気に、父の事件が拍車をかけたことで、確立してしまったことなんでしょうね」
「君のお父さんの死に、その釧路という男が絡んでいるというのかい?」
「ええ、何しろプロジェクトリーダーですからね。ナンバーツーの父を亡き者にしようとするなら、少なくともナンバーワンが絡んでいると考えるのが当然ですからね。ただ、今は官僚になってしまったこともあって、手を出すわけにはいかない。母親も苦しんだようです」
秋田はまた頭を下げた。
「冷たいことを聞くようだけど、君はいまさらそのことを調べてどうしようっていうんだい?」
そういうと、秋田は頭を一気に上げて、健一を凝視した。
その表情には危険なものを感じるほど、カッと見開いた目がこちらを睨んでいた。
「何かをしようという思いは今はありません。ただ事実を知りたいんです」
「しかし、もう十年も経っていることだし、そのことが判明しても、君のお父さんが生き返るわけではないんだよ」
「ええ、分かっています。でも、ここで解明しておかないといけない気がするんです。この先、何が起こっても不思議のない状況がこの研究所で起きるような気がしているんですよ。もちろん、妄想にすぎないんでしょうが、それならそれで、解明しておかないと、一生この思いを引きづっていきそうで、その方が恐ろしいんです」
秋田の気持ちは分かるような気がした。
――ひょっとすると、僕も十年したら、父の失踪の原因を突き止めないと、どうにもしっくりこなくて、同じことをするかも知れない――
と感じた。
父は死んだわけではなく失踪したのだ。もちろん、今も生きているという保証はないが、死が決定しているわけではない。それを思うと、時々やりきれない気分になっていた。
「そのことを僕に話したのは、父が失踪した僕なら、君の気持ちが分かるのではないかと思ったからなのかい?」
「ええ、それもあります」
「他にも?」
「ええ、そうなんですが、今の段階では申し訳ありませんが、口にすることはできません。お察しください」
そう言って、秋田は、深々と頭を下げた。
秋田助手は、少し考え込んでいたようだが、意を決したのか、また話し始めた。
「この話は、最初するつもりはなかったんですが、ここまで先生にお話したんですから、話した方がいいですね」
「どういうことなんだい?」
「僕が先生にこの話をした理由についてなんですが、やはり同じ父親を亡くしていて、しかも、原因不明の失踪をされた父親をお持ちの先生だから話してみたいと思ったんです。そのことはさっきお話しましたが、それは先生なら分かってくれるという思いだけですよね。お話をするには、きっかけが必要になるんです」
「そのきっかけというのは?」
「背中を押されたとでもいえばいいんでしょうか? 僕にとっては、不可解であり、不愉快でもありましたが、そのおかげで今までモヤモヤしていたものが自分の中に鬱積していたことに気が付いたんです」
少し大げさに思える前置きだった。
「最初は、今から三か月くらい前のことなんですが、ある雑誌記者という人が僕の前に現れたんです。見るからに胡散臭さが垣間見えました、元々雑誌記者という人種に免疫のない僕にとっては、最初から身構える相手だったんです。その人から見れば僕なんかは、実に与しやすい相手だったのかも知れませんね」
「それで?」
「その人が言うには、十年前の僕の父の死を調べているというんですね」
「君のお父さんは、心臓麻痺が原因で死んだんじゃないのかい? 警察もそう結論づけたんだろうし、それともその時にお父さんは、何か誰かに殺されるような様子でもあったというのかい?」
「いいえ、警察もそんな話はまったくしていなかったし、研究所の方からも、まったくそんな話はありませんでした。母も僕も心臓麻痺に間違いないと思っていましたからね」
「それだったら、どうして雑誌記者はいまさらそんな調査をするんだい?」
「そこなんですよ。僕も不思議に思ったのは。何をいまさら十年も経っていることを引っ張り出そうとしているのかですよね。考えられることとして、その雑誌記者がいろいろな取材を重ねているうちに、まったく関係のないところから、父の死に対しての疑念を抱いたということなんです」
「ということは、逆に言えば、お父さんの死がもし心臓麻痺ではないとすれば、その原因はもっと深いところにあって、広い範囲に影響を及ぼしていると考えることもできるということだね」
「ええ、そういうことになるんですよ。僕は最初その雑誌記者の話をまったく相手にしませんでしたが、いろいろ考えてみると、気になってきたんですよね。何しろ十年前のことで、僕はまだ中学生。警察の発表をそのまま鵜呑みにするしかなかったですからね」
「でも、その時は納得したんでしょう?」
「ええ、母も納得していたようです。もし少しでもおかしなことがあれば、母の性格であれば、警察にもっと食って掛かったでしょうし、研究所にも調査を依頼していたはずですからね」
「お母さんはしなかった?」
「ええ、確かに研究所からは、かなりの金額の見舞金が支払われたようです。父の突然の死で、僕たちの生活は大変なことになるところだったので、見舞金が大きかったことはありがたいことでした。もっとも、僕はそのことを最近まで知らなかったんです。でも、僕が大学を卒業して研究所に入る時に、その時の話をしてくれたんです。『あの時のお金があったから、お前を研究所員にすることができたんだよ』ってね。僕は、研究所からのお金で勉強し、父の跡を継ぐようにして、この研究所に入所できた。本当に嬉しいと思いました。きっと母も僕が喜ぶと思って話してくれたんでしょうね」
「でも、違ったのかい?」