次元を架ける天秤
しかし、これも石狩教授の計算だった。
息子がいずれこれを発見するだろうと思っていたのか、最後に、
「息子に捧げる」
と書かれていた。
本文の内容から、息子など一切出てこなかったので、最後の一文はいかにも異様に映ったことだろう。だからこそ、、余計に架空の話だと思って相手にしなかったに違いない。
母親にしても同じことだ。
もし、日記を見ていたとしても、現実主義の母親には、架空の話に見えた時点で、日記を閉じたに違いない。健一にはその時の光景が目に浮かんできそうで、それを想像していた父が、どこかでほくそ笑んでいるのが分かるようで、おかしな気分になっていた。
これを見た時、
「これが父の本心だったのか?」
と感じたが、読み終わって冷静になると、どこか納得のいかないところがあった。
デリケートな部分を秘めているこの日記には、少しでも納得のいかないところがあれば、信憑性はかなり下がってしまうと健一は感じていた。
そのため、日記のことは頭の片隅に置いておきながら、納得のいかないことが解決しそうに感じた時、再度日記を見ようと思ったのだ。
しばらくしてから秋田教授の息子が入所してきた。
彼は父親の死について、何も疑っていなかった。しかし、母親が見舞金と称した「保険」を受け取ったという事実を聞いた時、健一は、
「父親の日記」
を思い出したが、まだ納得のいくところまで来てはいなかった。
秋田研究員は父親の死について、何ら疑問を抱いていなかったのに、健一の言葉を聞くと、今度は自分からいろいろと調べ始めた。
「先生は、以前この研究所にいた釧路睦夫という官僚をご存じですか?」
といきなり聞かれてビックリした。
なぜなら、その名前が父の残した日記に書かれていたからである。
これを聞いた時、さらに納得できないことがまたしても増えてしまったようで、
――余計なことをしやがって――
と、釧路の名前を口にした秋田研究員を忌々しく思えたほどだった。
父の日記に書かれていたのは、秋田教授が心臓麻痺で死ぬことが分かっていたようだったが、本当に死んでしまったのかということが疑問符で書かれていた。
しかも、死に関わっている人が他にもいると書かれていたが、その人は秋田教授が死んでしまうことで得をする人だった。
「一歩間違えると、殺されるかも知れない。そのために『死』という先手を打つのだ」
と書かれていた。
「殺されるかも知れないのに、『死』という先手を打つというのはどういうことだ?」
そこに欺瞞が隠されているのではないかと考えるのも不思議のないことだ。
特に心臓麻痺ということであれば、いくらでも細工ができるのではないかと思ったのは、健一のような研究員だったからである。
――ということは、秋田教授の死には、何か他に秘密が隠されていて、父の失踪にも大きく関わっているのかも知れない――
そう思うと、自分が行方不明になってから、秋田教授が死ぬまでの五年間、いや、計画から考えると、健一がこの日記を発見するまでの間、石狩教授の壮大な計画が形にはなっていないまでも、漠然と見えてきたのだった。
しかし、健一がこの日記を発見してからどう対応するかによって、せっかくの計画もどちらに転ぶかわからないはずだ。せっかく長い年月をかけて積み重ねてきたものをいかに完結させるかを考えると、何かが足りないような気がする。
――そうだ。失踪したお父さんの存在だ――
石狩教授は、法律上では死んでしまったことになっているだけで、実際に死んだわけではない。しかも、秋田教授の心臓麻痺にも疑問が満載である。そう思うと、最後の大団円は、主役である二人の登場が待ち望まれるのではないかと思えてきた。
石狩教授の書き残した日記には、失踪する前のことは、完全な日記だった。
毎日のことが克明に描かれている。そこには、麻美の話も赤裸々に描かれていて、読んでいて顔が真っ赤になってしまいそうだった。
「お父さんは何を考えていたんだ」
息子としては、母親が可愛そうで仕方がなかったが、父の日記を読んでいるうちに、母も秋田教授と不倫をしていることが分かってきた。
それは、なるべく暈かして書かれていたので、よほど注意深く読まないと分からないほどだった。
「お母さんもお母さんだ。これなら、精神に異常をきたしても仕方がない」
と思い、母親の弱さが招いた悲劇にしか思えなかった。
要するに母親の場合は、
「自業自得」
にしか思えなかったのだ。
だが、ここで出てくる政治家の釧路睦夫という名前、最初に出てきてから、しばらくその名前はなかったが、ある日をきっかけに頻繁に出てくるようになった。
それが秋田教授と母が不倫を始めた時期だったのだ。
これも注意深く見なければ分からない。
しかも巧妙に書かれていて、母親には分からないが、息子である健一にだけは分かるように書かれていた。
「やはり血の繋がりが関係しているんだろうか?」
と、考えさせられた健一だった。
それは、医学を志すものではないと分からないようになっていた。同じ医学を志す息子にとって、暗号にも見えるこの手紙を解読することなど、朝飯前のことだった。
そこに書かれていた内容は、大きく二つに分かれていた。
一つは、秋田教授が不治の病に侵されていて、当時の医学ではとても治すことのできないものだという苦悩が書かれていた。
治すには、未来に行って不治の病ではない時代から、特効薬を手に入れるしか手はなかった。その時代では高価すぎて手には入らないが、過去のお金を持って行けば、闇で高価に取引ができた。金銭的には問題ないのだが、それをしてしまうと、自分が犯罪者になってしまう。そのため、秋田教授の病を治し、自分が失踪したことにして、ほとぼりが冷めた頃に、今度は秋田教授が心臓麻痺で死んだことにする。
遺体は未来において「ダミー」を手に入れれば、簡単に作ることができた。ここまで計算してのことだった。
もちろん、またほとぼりが冷めれば、子供たちの目の前に戻ってくることになるのだが、すぐには無理だという。
ここから後半になるのだが、失踪の理由の前半が「認められる理由」になるのだろうが、後半は、
「果たして、許されることなのか?」
という思いが、石狩教授の中にあったという。
健一もウスウス感じていたことだが、石狩教授と麻美の不倫、そして、秋田教授と石狩夫人の不倫というW不倫が、この計画の原因になったというのだ。
元々、最初に不倫をしたのは、秋田教授と石狩夫人だったという。
石狩夫人は、猜疑心が強く、しかもプライドの高さはかなりのものだった。息子の健一も、嫌悪感をあらわにし、母親だと認められないと何度感じたことだろう。
石狩教授は自分がそんな妻と結婚したことを、最初から後悔していた。
石狩教授の先祖は華族であったが、夫人の先祖も同じ華族であった。
同じ華族でも、夫人の方は親から英才教育を受け、恥ずかしくないような娘に育てられた。