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次元を架ける天秤

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「ちょっと出張に出るので、二週間ほど留守にします。その間、自由にされていてもいいですので、いい機会ですから、お宅でゆっくりされたらどうですか? もちろん、その間の給料はお支払いします」
 というと、
「旦那様、それはありがたいことです。ではお言葉に甘えまして、二週間ほどお暇をいただきますね」
「ええ、どうぞゆっくりされてください」
 誰もその言葉に疑いを抱く人はいなかった。
 教授は年に何度か出張があった。学会への出席などがほとんどで、出かけたら、二週間はおろか、一か月留守にすることもあったくらいだ。
 二週間が経ってから皆が帰ってきても、少しの間、誰もおかしいということに気づかなかった。四日ほど経って、さすがに誰かが、
「ちょっとおかしいんじゃないか?」
 ということで、研究所に問い合わせてみると、その時初めて教授の失踪が明らかになった。
 元々、出張というのも真っ赤なウソで、どうして教授がそんなウソをついてまで屋敷から皆を遠ざけたのか分からなかった。一日、二日なら分かるのだが、二週間というのは、今までにはなかったことだった。
 二週間という期間、屋敷は誰もいなかったわりには、綺麗なものだった。誰かが毎日掃除していたような感じなので、教授がいなくなったのは、二週間のうちの後半ではないかということは明らかなようだった。
 その間一人で屋敷の中で何をしていたというのだろう?
 失踪は最初から計画されていたことなのか、それとも突発的に起こったことなのか。突発的なことであれば、何かの犯罪に巻き込まれたとも考えられる。警察も、事件と事故の両面から捜査するようで、簡単には見つけ出すことはできない雰囲気が漂っていた。
 奥さんと健一は実家から戻ってきた。
 奥さんとしては、戻ってきたというよりも、連絡を受けて、
「呼び戻された」
 と言った方がいいかも知れない。
「夫はどうなったんですか?」
 警察の人に聞いてみたが、
「今のところ捜査中です」
 というだけで、ハッキリとしたことは分からない。
 奥さんとしても、とりあえず聞いてみただけで、教授が無事でいようと、何かに巻き込まれて失踪したのであっても、どちらでもいいように思えていたのである。
 まさに他人事だったが、自分がここまで無神経になれるものかと奥さん自身も信じられないと思っていた。元々嫉妬深い方であるのは自分でも分かっていた。しかし、相手を疑うことをほとんどしてこなかった奥さんにとって、夫が不倫をしているという事実を知った時、許せないという気持ちよりも、何がどうなったのか分からないという思いが、感覚をマヒさせたようだ。
 感覚のマヒがそのまま嫉妬に繋がったわけではない。実際に自分の中では嫉妬しているという意識はなかった。自分が孤立したという意識はあったが、寂しさはあまり感じなかった。
 そんな時、相談相手は秋田教授だった。
 秋田教授も、自分の奥さんの様子がどこか変であることには気づいていたのだが、どこが違うのか、正確には分からずに、悩んでいた。そんな時、石狩夫人の様子を見ていて、
――僕と同じような悩みを持っているんじゃないか?
 と感じたことで、いろいろ話をするようになった。
 話を聞いてあげているうちに、石狩夫人の感覚がマヒしていることに気が付いた。
「あの時は、魔が差したんだ」
 と後から振り返った秋田教授は感じたようだが、石狩夫人の孤立した雰囲気に呑まれてしまったと言っても過言ではないだろう。
 石狩夫人の感覚がマヒしている様子が乗り移ったのか、秋田教授には罪悪感が薄れていくのを感じた。
――どうせ、妻だって好きなことをしているんだ――
 という思いが強い。
 二人の気持ちはドーナツのような空洞状態だった。表では愛し合っているような感覚でいるが、実際には中身は何もない。感覚がマヒしているというのは、そういうことだったのだ。
 お互いに自分の配偶者が勝手なことをしていて、その態度に対してのやりきれない気持ちを誰にぶつけていいのか分からない中、結果としてお互いに相手を交換してのW不倫、まさに泥沼と言ってもいいのだが、皆孤独を抱えながら、実際には寂しさから結びついたわけではない。本当であれば、すぐに瓦解しても不思議はなかった。
 しかし、瓦解しなかったことで、今度は本当に愛し合っている二人の結び付きよりも別の意味で離れられなくなった。惰性と言ってしまえばそのままなのだろうが、離れることで自分に寂しさがよみがえってくることを、全員が恐怖に感じていたのだ。
――負と負の連鎖で結びついている関係――
 まさしく、腐れ縁とはこのことなのかも知れない。
 石狩教授がいなくなった後の自室を、警察はくまなく探したが、そこには遺書のようなものは発見されなかった。石狩夫人も彼の部屋を探してみたが、失踪に関わることは何も発見できなかった。
 警察の捜査は、あくまでも「遺書」の存在を捜査することであって、少々のプライベートなことは、事件と直接関係がなければ、ほとんど無視していたと言ってもいい。
 奥さんの方も、感覚がマヒした状態で探すのだから、ほとんどが上の空。まだ警察の捜査の方が真剣だったと言ってもいい。
 結局、この部屋からは何も発見されず、
「原因不明の失踪」
 ということで、失踪届を提出し、七年経って、正式に死亡をなったのだ。
 石狩夫人は、秋田教授にそばにいてほしかった。
 しかし、秋田教授は石狩教授が行方不明になった時から、石狩夫人の接触を拒み続けてきた。
 石狩夫人は、孤立と寂しさに苛まれ、精神異常の状態に追い込まれ、しばらく入院を余儀なくされたが、退院後は実家に戻り、実家で生活をしていた。
 健一はちょうどその頃、研究所への入所が決まっていて、もう母親の助けはいらない状態だった。
 研究所に入所し、落ち着いてから今までのことをいろいろ思い出していた。
 父親が失踪し、五年後、秋田教授が急死、七年後父親の死亡が法律上確定し、母親も実家に戻ってしまった。
 波乱万丈の人生であったが、あの屋敷だけは売却せずに残っている。何を隠そう、健一が住んでいたのだ。
 健一は、自分が父親と同じように研究員になったことで、父がどのように考えていたのかが知りたくなった。屋敷の中でも、掃除以外は何もしていない父の部屋に入り、いろいろ机の中や書棚を物色してみた。
 その中に父の日記が隠されているのを発見した。
 机の中が二重底になっていて、その下段に隠してあったのだ。母親はまだしも、警察が見逃すはずもない場所である。
 その内容を見て、健一が愕然とした。
 そこには自分がいずれ失踪する計画であること、そして秋田教授が心臓麻痺で死んでしまうことなどが書かれていた。
 どうして警察がその時に不審に思わなかったのかというと、自分の失踪以外は、未来に起こることであり、あたかもフィクションのような書かれ方をしていたからだ。しかも実名ではなく、架空の名前を使っていた。
 日記に架空の名前で、しかも未来のことが書かれているなど理解できない警察には、それは空想小説にしか見えなかったことだろう。遺書を中心に探していた警察が、これを意識するはずもなかったはずだ。
作品名:次元を架ける天秤 作家名:森本晃次