次元を架ける天秤
元々ラブホテルを利用したのも、その性格によるものだった。彼のような紳士的な人であれば、高級ホテルで食事をして、
「今日は、上に部屋を取ってあるんだ」
と、ルームキーを渡してくれるという、テレビドラマなどでお馴染みの光景が想像できるのだが、彼は決してそんなことはしなかった。
予約もなしに当てもなく、ホテル街を歩く。
明らかに歩いていることを楽しんでいる彼を見ながら、心細そうに腕にしがみつく麻美は、自分をいじらしく感じるのだった。
「麻美さん、今日はここにしよう」
と、ランダムにホテルを決める。
時には、すべて部屋が埋まっていることもある。金曜の夜などは当然のことであろう。
「ああ、ここはいっぱいだったね」
と言って、すぐに他のホテルを物色し始める。そんな時は、なかなか空いている部屋がなく、ひたすら夜の街を彷徨っていた。
その時は、どうしていいか分からず、次第に不安になってくるのだが、石狩教授の表情に、一切の変化はない。まったくの無表情でホテルを探しているのだが、その横顔を見て、何度、
――怖いわ、この人――
と感じたのか分からない。
「あった、あった」
やっとの思いで部屋が見つかった時、初めて彼の表情に明るさが戻ってきた。
麻美は部屋が見つかったことよりも、その表情にホッとするのだった。
部屋に入ると、石狩教授は麻美を蹂躙する。麻美も縛られることがこれほど快感なのかと初めて感じる。縛られる快感に単純に目覚めただけなのか、それとも、相手が石狩教授だから快感なのか、どちらなのか分からない。しかし、その時は、
――どちらでもであって、どちらでもないんだわ――
と感じていたように思う。
その時にどうしてそんな感覚になったのか、冷静になって思い出そうとしても思い出せるものではない。それだけ、その時自分はその時間と空間に酔っていて、夢の世界に連れて行かれたような気がしていた。
「女房がね。家を出て行ったんだよ」
と麻美に話しかけた時、麻美はどんな表情をしていいのか分からなかったが、心の中では、
――これでこの人を私が独占できる――
と感じた。
その時にはすでに頭の中に夫の秋田教授の存在はなかった。石狩教授に比べれば、秋田は明らかに幼いイメージだったからだ。
なぜなら、秋田が家で麻美に話すことと言えば、石狩教授の話題が多い。研究に関して家で話すことはあまりないので、どうしても石狩教授の話が多くなるのだろうが、それも仕方のないことだった。
しかし、秋田教授は石狩教授を尊敬していた。尊敬というよりも、崇拝していたと言ってもいいくらいである。それだけに、石狩教授の話をする時は嬉々としていて、自分が石狩教授の弟子であることに誇りを感じているため、どうしても、自分がへりくだった表現しかできないのだ。
妻としては、そんな夫に頼りなさを抱いていた。
本人は、もちろんそんなつもりはない。自分がいかに石狩教授を尊敬していて、石狩教授についていけば、間違いないということを言いたいのだろうが、麻美としては、
――なんて、情けない人なのかしら? それにしても、教授にまでなった夫にここまで言わせる石狩教授というのは、どんな人なのかしら?
と感じるのも無理もないことだった。
麻美は石狩教授に近づいた。
石狩教授のことは、夫から散々聞かされているので、どうしても贔屓目に見てしまう。しかも、贔屓目に見た感覚と彼の雰囲気がピッタリ合致してしまったのだから溜まらない。それまで一目惚れをしたことのない麻美が惹かれたのも無理もないことだった。
麻美は、最初に感じた石狩教授のイメージは百パーセントというよりも、百二十パーセントと言ってもいいくらいで、少々のマイナス要因があっても、まだ百パーセント以上だったのだ。
そんな麻美を石狩教授はどんな目で見ていたのだろう?
奥さんが家を出ていったくらいなので、麻美が感じているような思い以外の一面を彼は持っているに違いない。
いや、麻美も感じている部分なのかも知れないが、一目惚れしてしまったことで、
「痘痕もエクボ」
に変わってしまったのだろう。
もちろん、麻美も石狩教授もそんなことに気づいていない。奥さんが出て行ったことに関して最初の頃は少しショックが残っていた石狩教授だったが、すぐに奥さんのことを忘れてしまっているようだった。
そうでなければいくら無神経でデリカシーのなさが目立つとはいえ、自分の家の寝室に、不倫相手を招き入れるはずはない。招き入れることで自分の中にあるS性をさらに湧きたてようというのだろうか。
麻美はそれ以外のことを考えられなかった。
麻美は石狩教授の寝室で、何度愛されたことだろう。
蹂躙もされたし、拘束もされた。そのたび、二人の興奮は最高潮に達し、
「君は最高だ」
という言葉を一点の曇りもなく、信じることができた麻美だった。
「嬉しいわ」
抱き着くことが麻美は一番の癒しだった。
――本当は、これを求めていたはずなのに――
すっかりSの石狩教授に自分のM性を引き出されてしまった麻美は、恥ずかしさを感じながら癒しを受けていることに大満足だった。
――このまま時間が止まってくれればいいのに――
と、あまりにもベタだと思いながらも、口から出そうになるのを必死に抑えていた。
そんな麻美の顔を覗き込んでニッコリと笑う石狩教授を見て、
――この人は、私の考えていることが分かるんだわ――
と感じ、悦に入っている麻美だった。
しかし、石狩教授は、他の人に比べて相手の考えていることが分かる人だった。持って生まれた性格なのだろうが、そのことに気づいたのは、石狩教授が小学生の頃だった。
他の人にも同じ能力があると思っていたが、実際にはそうではなかった。
そのため石狩少年のことを、友達は、
「あいつは、自分ができることは皆にもできると思っているようだ」
として、あまり彼に近寄る人はいなかった。
下手に近寄って、分かっていないことを叱責されるのを嫌ったからだ。クラスに一人くらいそんな人はいるが、苛めの対象になったり、苛められなくても、無視されるくらいのことはあるだろう。
石狩少年も、そのことで悩んでいた。中学に入学する頃には、大体のことが理解できるようになっていたが、その感覚が将来学者を目指すきっかけになったのだから、分からないものである。
この性格は遺伝するもののようだ。
息子の健一にも同じところがあり、子供の頃には結構人間関係に苦労したようだ。中学に入って、父親が昔考えていたことが分かったのか、そのおかげで、自分も学者を目指すようになった。
ただ、父親とは違う形の学者になりたいと思ったようだが、その理由は、自分でも理解していないようだった。
石狩教授が行方不明になったのは、麻美と最後に愛し合ってから一週間後だった。最初は、誰も石狩教授が行方不明になったということに気づく人はいなかった。屋敷には身の回りの世話をする人がいたのだが、